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人間ラボ #7

2011/03/29

[2023 May.23] フィジク室とサイコ室の室長となった私だが、研究員は誰もいないためほとんど仕事にならなかった。
 もちろん仕事をする気など全くない。
 ラボで何が起こっているのか、その真実を知ることだけが今の私を突き動かしていた。
 イオ室長はトリトンが鍵を握っていると言い、何らかの情報を入手した後に死んだ。いったいどんな情報だというのか。
 死にたくなる情報? そんなバカな。聞いただけで死にたくなるものなど思いつかない。トリトンの妄言じゃないのか。
 しかしイオ室長は死んだ。
 天才的で探究心が強く、常に前を向いているイオ室長が。

 私はフィジク室で例のノートを広げた。
 アルテミスからフィジク室に行くなと言われていたが、少なくともここに来ただけで死ぬことはないだろう。
 この何の変哲もない夢日記が何か関係しているのか。
 もう一度内容をチェックしてみたが、日付と取り留めの無い内容が羅列しているだけで特筆すべき点はどこにもなかった。
強いて言えば、夢の場所がこのラボ内であることが多いという点だけだ。私も稀に夢を見るが、その舞台はこのラボであることが多い。ラボに缶詰状態で見る夢なのだから当たり前だ。
 では離脱の方か。
 しかし離脱といってもしょせん睡眠時の体感現象でしかない。
明晰夢よりレベルは上だが、それが自殺を誘発するというのはありえない。夢も離脱も些細な外的干渉ですぐ解けてしまうものだし、いかに訓練を積んでも長時間維持できるものではない。それに習得には相当な時間が必要だろう。
 だめだ。全く分からない。
 駄目で元々、もう一度トリトンと会ってみるか。
 ケミク室に行くと、トリトンは相変わらずタンパク質の解析モニタを眺めていた。私もそうだが、この男も仕事をする気はあまりないようだ。
「ラボから出ろと言ったのに、なぜまだここにいる?」
 トリトンはモニタを眺めながら独り言のように呟いた。
「ずっと一人は退屈だろう?今日は私と世間話でもしないか」
 私の言葉にトリトンは少し驚いて振り返った。
「ヘルメス、キミは本当におかしな人間だな」
「おかしな人間だからここにいるんだろう?」
 トリトンが少しだけ笑った。この男が笑ったのは初めて見た。

 トリトンがコーヒーを入れてくれた。私たちはガランとした会議室に腰を下ろした。
「今、元素番号の最後は何番だと思う?」
 トリトンが興味なさそうな目で訊いてきた。
「何番だったか、117番くらいかな?」
「俺も知らない」
「おいおい、キミは化学者だろ」
「103以降は知らなくても同じだよ。たった数秒の寿命しかない物質のことを知ったところでどうなるものでもない」
「ならなぜ訊く」
「このラボも同じさ」
 トリトンは大きなあくびをした。
「意味のないことを延々と知ろうとする」
「トリトン、キミはなぜこのラボに来たんだ?」
「別に理由はないよ」
「理由がないって……」
「生きる理由がないと生きてちゃいけないのかい?」
「いや、話が飛躍してる。それにこのラボは無意味じゃない。
医学、遺伝子学、化学、生物学、あらゆる分野で重要だ。それが社会を豊かにする。人間はそうやって進歩してきたんだ」
「真面目だな、キミは」
「普通だよ」
「そして少しおかしい」
「お互い様じゃないか」
「こんな話をしていても、俺は何もしゃべらないよ」
「それはもう諦めてる」
「ならなぜここにいる」
「答えっていうのは教えられて見つけるだけじゃないんだよ。
こうやってキミと話をすることで何か手がかりが見付かるかもしれない」
「やはりキミは変人だな」
 トリトンは空になったカップを持って立ち上がった。
「いいか、これが最後の忠告だ。俺の話を全部聞いたらキミは死ぬかもしれない。だから絶対に死なないと、今ここで俺と約束をしてくれ」
「当たり前じゃないか。私は死なない。まだこの世に未練がいっぱいあるしな」
「それでは駄目だ。今ここでこの世の全てを諦めてくれ」
 言っている意味が分からなかった。
「いや、それは矛盾してないか」
「俺の話を聞きたかったら何もかも捨てるんだ。それで絶対に死なないと約束してくれ」
「捨てるっていうのは、具体的に何のことを指しているんだ?」
「全てだ」
「それは死ねってことじゃないのか?」
「そうだ」
「いや、キミはさっき死ぬなと言っていたじゃないか」
 まるで哲学だ。いや禅問答か。さっぱり理解できない。
「約束できないなら教えられない」
「とにかく私は死ぬ気などない。それは約束する」
「俺の言ってることが理解できたか?」
「要するに、真実を知ると何かしら絶望するということだろう?だからそうならないように心の準備をしておけと」
「心の準備だけでは駄目だ。全てを諦めてくれ」
 まるで死刑宣告でもされている気分だった。お前を死刑にするが死ぬな、と言われているようだった。
「脅しじゃない。実際に7人もの人間が死んでいる。キミに死んでほしくないんだ」

 どうする。
 聞いただけで死にたくなるなど有り得るのか。
 しかし、トリトンが嘘を言っているようには見えない。
 全てを諦めろ、か。
 もう自分は死んでいるものと思って話を聞けということか。
 聞こうが聞くまいが真実はひとつだ。
 何も知らないで死ぬより、私は真実を知りたい。
「分かった。全てを諦めよう。話を聞かせてくれ」

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