人間ラボ #1
2011/03/23
ヒトの全てを解明する研究プロジェクト。
200?四方のジオフロント状の研究施設には私を含め、20名の研究員がいた。
人類にとって有益な発見を夢見る者。
自身の好奇心に突き動かされる者。
名声を欲する者。
研究が始まった頃の私たちは希望に満ち溢れていた。
そして研究員の中から自殺者が出た時、私たちはようやく自分たちが何も理解していなかったことを理解した。
気付いた時には既に研究員の数は5名になっていた。
[2023 May.16] 私たちは三つのグループに分かれていた。
人体の構造や遺伝子を解明するグループ、フィジク室。
人体の中で起こる化学反応やウイルスを調査するケミク室。
ヒトの心、精神を分析するサイコ室。
最も早い段階で歪みが出たのはフィジク室だった。
今現在、フィジク室の研究員は1人も残っていない。
次におかしくなり始めたのがケミク室。
ケミク室はフィジク室と頻繁に成果の交換をしており、異常に晒されやすかった。残った研究員は1人だけである。
最も正常に進行していたのはサイコ室だ。
プロジェクト全体に対する失望によって脱落したのが2人だけで自殺者など1人もいなかった。
サイコ室の研究員は私を含め4人残っている。
それでも研究は継続された。
いや、正確には研究の方向が変わった、といってもいい。
「なぜフィジク室の人間がおかしくなったのか」
真実に最も近い人間はケミク室でただ1人残ったトリトン。
トリトンは本名ではなく研究員に与えられた通称である。
私たちはギリシャ神話の神名を割り当てられている。みな神にでもなったつもりでいたのだろう。
私にはヘルメスが割り当てられていた。
[2023 May.18] サイコ室長イオは残っている研究員全員を招集した。
室長は他ラボに対する権限を持っていないが、サイコ室以外の室長が不在のため臨時的に全権限を任されていた。
「フィジク室は私が引き継いで研究を行う。ケミク室はトリトン、サイコ室はヘルメスが室長となり研究員の補充を待ちつつプロジェクトを続行させる」
「イオ室長が1人でフィジク室を?」
ガニメデが表情を硬くした。
各室長は全てのラボの研究内容を熟知しており、イオ室長がフィジク室の研究を継続することは可能だった。もちろんガニメデが言いたいのはそういうことではないだろう。
「研究は凍結させて全プロジェクトを破棄するべきです」
フィジク室に異常事態が発生していることは全員が認識している。ガニメデは被害を最小限に抑えることを主張した。
「これは私の独断で決めたことではない」
「省からの指示ですか?」
「有事のひとつとして可能性は示唆されていた」
「研究の継続が生物災害のマニュアルなのですか」
「これは生物災害ではない」
ガニメデはフィジク室で生物災害が発生していると主張していた。確かにケミク室ではウイルスも扱っている。
「犠牲者の死因は全て自傷であり、ウイルス等の感染は確認されていない」
「未知のウイルスである可能性もあります」
「死因が明確なものは未知ではない」
フィジク室の研究員が全員自殺しているわけではなく、精密検査も行っている。彼らに共通しているものは「精神的な疲労」
だけであった。
「私は警察に任せるべきだと思います。これは研究事故ではなく刑事事件です」
次に意見を出したのはアルテミス。
実のところ、私もアルテミスと同じ考えだった。
最初の自殺者が出た時に警察が立ち入り、自殺だと断定されているが、彼らが施設に介入できる部分はあまり深くない。
そもそも警察はプロジェクトを凍結させる力を持っていないのだ。捜査が不十分なまま自殺と誤認された可能性もある。
自殺を偽装した殺人かどうかは不明だが、どのみち自殺であったとしても死者を数名出すプロジェクトは規制されるべきである。研究者にとって危険なプロジェクトであることは疑いようもない。
「我々が解散しても別のチームが組まれてプロジェクトは継続される。不服があれば今すぐにでも施設から出ろ」
死者は6名出ているが残り9名は自主的に施設を出ている。
サイコ室もいよいよ頓挫の危機が迫っていた。
「ヘルメス、君の考えを聞こうか」
イオ室長は私に意見を求めた。
さて、どうするか。
ここで私が研究の中止を進言したところでどうにもならない。
私の代わりに別の研究員が補充され、私はラボを去るだけになるだろう。
このラボでいったい何が起こっているのか。
正直なところ、私には強い好奇心があった。
「私たちに計画を止める権限は与えられていません。犠牲を減らすのであれば、現状を最も把握している人間が研究に当たるべきです」
私の言葉を聞いてイオ室長は満足そうに頷いた。
「トリトンは何か意見はないか」
ケミク室ただ1人のトリトンは「何もありません」と下を向いた。
「今の状況が好ましくないことは理解している。だからこそ我々は意見をひとつにしなければならない。私からは以上だ」
重苦しい空気の中、私たちは解散した。
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