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人間ラボ #2

2011/03/24

[2023 May.19] サイコ室はヒトの心を研究している。
 もちろんヒトの精神だけ見て研究することはできない。心の動きは身体に大きく依存するからだ。仮に脳が生きていても身体をつなぐネットワークが失われ続けば自我は消失してしまうだろう。脳が身体を支配しているのではなく、身体が脳を支配しているともいえる。
 十分な神経ネットワークを持たない脳に自我はない。自分を意識できるのはある程度の情報伝達回路があってこそだ。
 ヒトの精神は身体がメインといえよう。

 地を這うアリに意識はあるのか。
 この問いはアリに十分な情報伝達網があれば「心がある」と答えられる。ヒトがこの答えを理解するにはアリの情報量をヒトに変換する作業が必要だ。
 ネットワークの量はヒトとアリでは違いすぎる。
 アリの気持ちをヒトに変換すると「おそろしく意識が薄い状態」
となるだろう。寝ぼけている状態よりさらにもっと寝ぼけた状態といえる。かすかに自分が何かしているのを感じられる程度かもしれない。
 ヒトより多い情報伝達網を持つ生物は、ヒトよりさらに意識がはっきりしている。ニューロンの発達規模によるものなので身体の大きさは基準にならないが、一般的な大型生物はヒトよりも数段クリアな世界を体感しているといえる。
 彼らからすればヒトは眠たい生き物に感じるだろう。
 意識レベルは絶対的ではなく相対的なものである。
 それは身体の神経細胞ニューロンの規模によって決まる。
ヒト同士であっても個体間の差はある。
 要するにサイコ室はフィジク室と研究連携する必要がある。
人体の構造を研究するフィジク室の成果はサイコ室にとって無くてはならないもの。だからフィジク室が研究を再開しないと私たちは先に進めなかった。

「ヘル……あ、失礼、ヘルメス室長。コーヒーかえますよ」
 アルテミスは新しいコーヒーを私の前に置いた。
「ヘルメスでいいよ」私は苦笑いしてカップを口に運んだ。
「こんな所にいていいんですか?室長になったら他のラボにも顔を出さないといけないんでしょう?」
 心なしかアルテミスの表情は安心しているようにも見えた。
 遠くでガニメデの叩くキーボードの音が止んだ。
「フィジク室から帰ってきたらちゃんと全身消毒してこいよ」
 ガニメデはまだバイオハザード説を捨てていないらしい。
 フィジク室はイオ室長が一人残って研究を続けている。
 多数の自殺者を出した問題のあるラボに一人だけでいるのは非常に危険だ。彼は天才的であったが、だからといって安全であるという保障はない「ヘルメスか。いいところに来た、座ってくれ」
 フィジク室に顔を出した私にイオ室長はコーヒーを入れてくれた。さっきアルテミスからコーヒーを貰っていた私はそれに口をつけなかった。
「キミは興味がないか?今このラボで何が起こっているかを」
 その言葉は、言いようの無い不謹慎さに満ちていた。しかし全く興味がないのかと問われれば、それを否定することもできなかった。
「私がキミをサイコ室長に選んだのは、もちろん能力的なものもあるが……」
 イオ室長は私をまっすぐ見た。
「キミに私と同じ匂いを感じたからさ。それは研究者として無くてはならない感性であり才能でもある」
 まるで悪魔に誘惑されているかのようだ。
「今回の件で、面白いものを見付けた」
 私はイオ室長から一冊のノートを受け取った。中をパラパラと確認すると、何やら日記のような、それでいて内容が非常に不可解なものだった。私はすぐにそれが何か分かった。
「フィジク室の資料室から出てきた。研究員の夢日記だ」

 私は首をかしげた。
 まさかイオ室長はこんなものが事件に関係しているとでもいうのだろうか。夢日記はサイコ室でも研究材料に使われたことはあったし、それが自殺に結びつくものではないというのも分かっている。
「フィジク室で『離脱』が流行っていたらしい」
「なぜ?」
「フィジク室は男ばかりの缶詰生活だったからな。男の生理を解消するのに明晰夢は便利だったということだろう」
 明晰夢とは、夢と認識できる夢のことである。
 夢の状況を自分の思い通りに変化させられるため楽しいらしいのだが、あいにく私はそのような夢など見たことはない。
 夢日記は、それ単体に意味を見出すものではなく明晰夢を見るためのアイテムとなるケースがほとんどである。もちろん日記を付けて自殺したくなることは絶対にない。あくまで明晰夢を見やすくするための訓練のひとつである。

 そして明晰夢よりレベルが上の体感現象が『離脱』だ。
 睡眠中に見る夢はしょせん意識が覚醒していない状態なので、ぼんやりしてあやふやなものであるが、睡眠から目を覚ます時に身体だけ睡眠状態に留めておくことを『離脱』という。
当然ながら相当なトレーニングが必要である。
 離脱がなぜ明晰夢よりレベルが上なのかというと、意識が覚醒しているため非常にクリアな世界を体験できるからだ。
新聞の文字を一字一句読むことも、歯ブラシの毛を一本一本数えることも、因数分解を解くこともできる。そのクリアな感覚は、起きている時と何ら変わらないほどだという。もちろん身体は寝たままだ。俗に言う金縛りは、身体が動かない状態のものではなく、あまりにもクリアな夢であるため、それが夢だと気付けず現実で起こったことだと錯覚することである。
 また、離脱は明晰夢と違って体験したことを正確にいつまでも記憶に残すことができる。これは覚醒状態で体験する現象だからこそで、未覚醒の明晰夢だと記憶は曖昧になってしまう。

「離脱で集団自殺はありえません」
 私はハッキリと自分の意見を述べた。あの天才的なイオ室長の示した根拠があまりに安直すぎて少しガッカリした。
「せっかちだなヘルメス。離脱はただの入り口だ。離脱と集団自殺の間にミッシングピースがあるかもしれない」
「単に資料室から夢日記が出てきただけで、離脱と自殺を結びつけるのは安易すぎます」
 私は未だに刑事事件説を捨てていなかった。調べるべきは離脱と集団自殺の間のミッシングピースではなく、研究員全員のアリバイと人間関係だ。
「キミの意見は分かる。どの道それを証明するためには夢日記と自殺の根拠を潰すことも必要じゃないか?」
「私に何をしろと」
「鍵はトリトンが握っている。彼は私に心を開いていないがキミになら何か話してくれるかもしれない」
「事件に関係することならば、警察に全て話しているのでは?」
 イオ室長は首を横に振った。
「このノートを見せて『どうしてラボに残ったか教えてほしい』とトリトン聞いてみてくれ」

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