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ニンゲンラボ

 ヒトの全てを解明する研究プロジェクト。
 200㎡四方のジオフロント状の研究施設には、20名の研究員がいた。
 人類にとって有益な発見を夢見る者。自身の好奇心に突き動かされる者。名声を欲する者。研究が始まった頃の私たちは希望に満ち溢れていた。
 そして研究員の中から自殺者が出た時、私たちはようやく自分たちが何も理解していなかったことを理解した。
 気付いた時には既に研究員の数は5名になっていた。

[2023 May.16]
 私たちは三つのグループに分かれていた。
 人体の構造や遺伝子を解明するグループ、フィジク室。
 人体の中で起こる化学反応やウイルスを調査するケミク室。
 ヒトの心、精神を分析するサイコ室。

 最も早い段階で歪みが出たのはフィジク室だった。
 今現在、フィジク室の研究員は1人も残っていない。

 次におかしくなり始めたのがケミク室。
 ケミク室はフィジク室と頻繁に成果の交換をしており、異常に晒されやすかった。残った研究員は1人だけである。

 最も正常に進行していたのはサイコ室だ。
 プロジェクト全体に対する失望によって脱落したのが2人だけで自殺者など1人もいなかった。サイコ室の研究員は私を含め4人残っている。
 それでも研究は継続された。
 いや、正確には研究の方向が変わった、といってもいい。
「なぜフィジク室の人間がおかしくなったのか」
 真実に最も近い人間はケミク室でただ1人残ったトリトン。
 トリトンは本名ではなく研究員に与えられたニックネームである。私たちはギリシャ神話の神名を割り当てられている。みな神にでもなったつもりでいたのだろう。私にはヘルメスが割り当てられていた。

[2023 May.18]
 サイコ室長イオは残っている研究員全員を招集した。
 室長は他ラボに対する権限を持っていないが、サイコ室以外の室長が不在のため臨時的に全権限を任されていた。
「フィジク室は私が引き継いで研究を行う。ケミク室はトリトン、サイコ室はヘルメスが室長となり研究員の補充を待ちつつプロジェクトを続行させる」
「イオ室長が1人でフィジク室を?」
 ガニメデが表情を硬くした。
 各室長は全てのラボの研究内容を熟知しており、イオ室長がフィジク室の研究を継続することは可能だった。もちろんガニメデが言いたいのはそういうことではないだろう。

「研究は凍結させて全プロジェクトを破棄するべきです」
 フィジク室に異常事態が発生していることは全員が認識している。ガニメデは被害を最小限に抑えることを主張した。
「これは私の独断で決めたことではない」
「省からの指示ですか?」
「有事のひとつとして可能性は示唆されていた」
「研究の継続が生物災害のマニュアルなのですか」
「これは生物災害ではない」
 ガニメデはフィジク室で生物災害が発生していると主張していた。確かにケミク室ではウイルスも扱っている。
「犠牲者の死因は全て自傷であり、ウイルス等の感染は確認されていない」
「未知のウイルスである可能性もあります」
「死因が明確なものは未知ではない」
 フィジク室の研究員が全員自殺しているわけではなく、精密検査も行っている。彼らに共通しているものは「精神的な疲労」だけであった。

「私は警察に任せるべきだと思います。これは研究事故ではなく、明らかに刑事事件の範疇です」
 次に意見を出したのはアルテミス。
 実のところ、私もアルテミスと同じ考えだった。
 最初の自殺者が出た時に警察が立ち入り、自殺だと断定されているが、彼らが施設に介入できる部分はあまり深くない。そもそも警察はプロジェクトを凍結させる力を持っていないのだ。捜査が不十分なまま自殺と誤認された可能性もある。
 自殺を偽装した殺人かどうかは不明だが、どのみち自殺であったとしても死者を数名出すプロジェクトは規制されるべきである。研究者にとって危険なプロジェクトであることは疑いようもない。

「我々が解散しても別のチームが組まれてプロジェクトは継続される。不服があれば今すぐにでも施設から出ろ」
 死者は6名出ているが残り9名は自主的に施設を出ている。
 サイコ室もいよいよ頓挫の危機が迫っていた。
「ヘルメス、君の考えを聞こうか」
 イオ室長は私に意見を求めた。

 さて、どうするか。
 ここで私が研究の中止を進言したところでどうにもならない。私の代わりに別の研究員が補充され、私はラボを去るだけになるだろう。
 このラボでいったい何が起こっているのか。
 正直なところ、私には強い好奇心があった。
「私たちに計画を止める権限は与えられていません。犠牲を減らすのであれば、現状を最も把握している人間が研究に当たるべきです」

 私の言葉を聞いてイオ室長は満足そうに頷いた。
「トリトンは何か意見はないか」
 ケミク室ただ1人のトリトンは「何もありません」と下を向いた。
「今の状況が好ましくないことは理解している。だからこそ我々は意見をひとつにしなければならない。私からは以上だ」
 重苦しい空気の中、私たちは解散した。

ニンゲンラボ #02

2011/03/24



[2023 May.19]

 サイコ室はヒトの心を研究している。
 もちろんヒトの精神だけ見て研究することはできない。心の動きは身体に大きく依存するからだ。仮に脳が生きていても身体をつなぐネットワークが失われ続けば自我は消失してしまうだろう。脳が身体を支配しているのではなく、身体が脳を支配しているともいえる。
 十分な神経ネットワークを持たない脳に自我はない。自分を意識できるのはある程度の情報伝達回路があってこそだ。ヒトの精神は身体がメインといえよう。

 地を這うアリに意識はあるのか。
 この問いはアリに十分な情報伝達網があれば「心がある」と答えられる。ヒトがこの答えを理解するにはアリの情報量をヒトに変換する作業が必要だ。
 ネットワークの量はヒトとアリでは違いすぎる。
 アリの気持ちをヒトに変換すると「おそろしく意識が薄い状態」となるだろう。寝ぼけている状態よりさらにもっと寝ぼけた状態といえる。かすかに自分が何かしているのを感じられる程度かもしれない。
 ヒトより多い情報伝達網を持つ生物は、さらに意識がはっきりしている。ニューロンの発達規模によるものなので身体の大きさは基準にならないが、一般的な大型生物はヒトよりも数段クリアな世界を体感しているといえる。
 彼らからすればヒトは眠たい生き物に感じるだろう。

 意識レベルは絶対的ではなく相対的なものである。
 それは身体の神経細胞ニューロンの規模によって決まる。ヒト同士であっても個体間の差はある。
 要するにサイコ室はフィジク室と研究連携する必要がある。人体の構造を研究するフィジク室の成果はサイコ室にとって無くてはならないもの。だからフィジク室が研究を再開しないと私たちは先に進めなかった。

「ヘル……あ、失礼、ヘルメス室長。コーヒーかえますよ」
 アルテミスは新しいコーヒーを私の前に置いた。
「ヘルメスでいいよ」私は苦笑いしてカップを口に運んだ。
「こんな所にいていいんですか?室長になったら他のラボにも顔を出さないといけないんでしょう?」
 心なしかアルテミスの表情は安心しているようにも見えた。
 遠くでガニメデの叩くキーボードの音が止んだ。
「フィジク室から帰ってきたらちゃんと全身消毒してこいよ」
 ガニメデはまだバイオハザード説を捨てていないらしい。

 フィジク室はイオ室長が一人残って研究を続けている。
 多数の自殺者を出した問題のあるラボに一人だけでいるのは非常に危険だ。彼は天才的であったが、だからといって安全であるという保障はない。
「ヘルメスか。いいところに来た、座ってくれ」
 フィジク室に顔を出した私にイオ室長はコーヒーを入れてくれた。さっきアルテミスからコーヒーを貰っていた私はそれに口をつけなかった。
「キミは興味がないか?今このラボで何が起こっているかを」
 その言葉は、言いようの無い不謹慎さに満ちていた。しかし全く興味がないのかと問われれば、それを否定することもできなかった。
「私がキミをサイコ室長に選んだのは、もちろん能力的なものもあるが……」
 イオ室長は私をまっすぐ見た。
「キミに私と同じ匂いを感じたからさ。それは研究者として無くてはならない感性であり才能でもある」
 まるで悪魔に誘惑されているかのようだ。
「今回の件で、面白いものを見付けた」
 私はイオ室長から一冊のノートを受け取った。中をパラパラと確認すると、何やら日記のような、それでいて内容が非常に不可解なものだった。私はすぐにそれが何か分かった。
「フィジク室の資料室から出てきた。研究員の夢日記だ」

 私は首をかしげた。
 まさかイオ室長はこんなものが事件に関係しているとでもいうのだろうか。夢日記はサイコ室でも研究材料に使われたことはあったし、それが自殺に結びつくものではないというのも分かっている。
「フィジク室で『離脱』が流行っていたらしい」
「なぜ?」
「フィジク室は男ばかりの缶詰生活だったからな。男の生理を解消するのに明晰夢は便利だったということだろう」

 明晰夢とは、夢と認識できる夢のことである。
 夢の状況を自分の思い通りに変化させられるため楽しいらしいのだが、あいにく私はそのような夢など見たことはない。
 夢日記は、それ単体に意味を見出すものではなく明晰夢を見るためのアイテムとなるケースがほとんどである。もちろん日記を付けて自殺したくなることは絶対にない。あくまで明晰夢を見やすくするための訓練のひとつである。

 そして明晰夢よりレベルが上の体感現象が『離脱』だ。
 睡眠中に見る夢はしょせん意識が覚醒していない状態なので、ぼんやりしてあやふやなものであるが、睡眠から目を覚ます時に身体だけ睡眠状態に留めておくことを『離脱』という。
当然ながら相当なトレーニングが必要である。

 離脱がなぜ明晰夢よりレベルが上なのかというと、意識が覚醒しているため非常にクリアな世界を体験できるからだ。新聞の文字を一字一句読むことも、歯ブラシの毛を一本一本 数えることも、因数分解を解くこともできる。そのクリアな感覚は、起きている時と何ら変わらないほどだという。もちろん身体は寝たままだ。俗に言う金縛りは、身体が動かない状態のものではなく、あまりにもクリアな夢であるため、それが夢だと気付けず現実で起こったことだと錯覚することである。
 また、離脱は明晰夢と違って体験したことを正確にいつまでも記憶に残すことができる。これは覚醒状態で体験する現象だからこそで、未覚醒の明晰夢だと記憶は曖昧になってしまう。

「離脱で集団自殺はありえません」
 私はハッキリと自分の意見を述べた。あの天才的なイオ室長の示した根拠があまりに安直すぎて少しガッカリした。
「せっかちだなヘルメス。離脱はただの入り口だ。離脱と集団自殺の間にミッシングピースがあるかもしれない」
「単に資料室から夢日記が出てきただけで、離脱と自殺を結びつけるのは安易すぎます」
 私は未だに刑事事件説を捨てていなかった。調べるべきは離脱と集団自殺の間のミッシングピースではなく、研究員全員のアリバイと人間関係だ。
「キミの意見は分かる。どの道それを証明するためには夢日記と自殺の根拠を潰すことも必要じゃないか?」
「私に何をしろと」
「鍵はトリトンが握っている。彼は私に心を開いていないがキミになら何か話してくれるかもしれない」
「事件に関係することならば、警察に全て話しているのでは?」
 イオ室長は首を横に振った。
「このノートを見せて『どうしてラボに残ったか教えてほしい』とトリトン聞いてみてくれ」

ニンゲンラボ #03

2011/03/25



[2023 May.20]

 私はトリトンの前に一冊のノートを置いた。
「どうしてラボに残ったか教えてほしい」
 昨日、イオ室長に「言え」と言われた言葉そのまま一字一句違えず伝えた。考えるのも面倒だったし、早く終わらせてイオ室長を納得させたかった。

 トリトンは中身も見ずにノートを私に付き返した。
「これをどこで?」
 トリトンは虚ろな目をしていた。この世の何も興味がないようにも見えた。
「フィジク室の資料室から出てきた」
「イオ室長が見付けたのか?」
「そうだ」
「なぜイオ室長ではなくキミがここにいる?」
 どう答えるべきか。ありのままを伝えたら彼は口を閉ざすだろう。さっさとお使いを済ませるだけならそれでも構わないのだが、彼の信用は無くしたくない。
「イオ室長に頼まれたんだ」
 しかし私はありのままを伝えた。そうするしかなかった。
「俺には、ここを去る理由がないからだよ」
 トリトンは力なく笑った。ラボに残った理由がそれなのか。
「イオ室長は離脱が集団自殺の原因だと思っている。トリトンはどう思う?」
「どう思うも何も、離脱はサイコ室のキミが一番よく知っているんじゃないか?」
「もちろん私は関係ないと思っている」
「なら、そういうことだろ」

 何か引っかかるが、これ以上粘ってもトリトンから情報は引き出せそうにない。私は諦めてケミク室を後にした。
 イオ室長に報告するか。
 しかし満足いく情報は何も得られていない。過剰に期待をかけられていた分、報告するのは気が重かった。

 次の日、イオ室長が死んだ。
 警察は自殺だと断定した。


ニンゲンラボ #04

2011/03/26



[2023 May.22]

 イオ室長が死んでも研究は継続された。
 私はフィジク室とサイコ室の室長を兼任するよう通達された。
 この状態で研究など、できるはずがない。なぜ中止にしない。世論はどうなっている。
「ヘルメス、俺は降りるわ」
 ガニメデは荷物をまとめていた。
「もっと早く決断しとくべきだったよ。お前はどうする?」
「どうするも何も」
「まだ気付かないのかよ。俺たちゃ初めから何も研究しちゃいなかったのさ」
「どういう意味だ」
「実験台にされてたんだよ。俺たちの方がな」
 まさか。
 確かに今の状況はおかしいが、私たちで何の実験になるというのか。7人もの命を犠牲にするほどのデータが得られているとは思えない。
「ヘルメスも逃げましょう?」
 アルテミスが不安そうに私を見た。
「この人数じゃ研究なんてできないし、みんなで辞めればプロジェクトも中止になるはずよ」
 トリトンは、どうするんだろうか。
 さすがにこんな状況になったら彼も残らないか。
「分かった。辞める方向で話を進めてみる」
「今すぐ逃げるのよ!フィジク室に行ったら、殺されるに決まっているわ!」
「いや、イオ室長は自殺だと……」
「そんな情報、信じられるわけないじゃない!」
 アルテミスは今にも泣き出しそうだった。
「分かった、今日中に施設を出る。アルテミスとガニメデは先に行っててくれないか」
「嫌よ、みんなで固まって行動しないと殺されるわ!」
「分かった、分かったから、少し待っててくれ。トリトンと話をしてくる」
「フィジク室に行っては駄目よ」
「ああ」

 ケミク室に行くと、トリトンはモニタに映っているタンパク質の解析データを眺めていた。
 私は言葉を失った。
 こんな状況で彼は、いつも通り研究を続けていた。
「ヘルメスか」
 トリトンは私を見ずにモニタの方だけを見ていた。
「前に話したと思うが、俺にはここを去る理由がないからな」
 この男はいったい何なんだ。
「キミ以外は全員、施設を去る予定だ」
「ヘルメスもか」
「ああ」
「分かった。上にはそう伝えておくよ」
 トリトンは何事も無かったかのようにモニタを見ていた。

 私は彼の腕を強引に引いた。
「キミも逃げるんだ。もう研究を続ける意味がない」
「研究を続けるのに意味が必要なのか?」
「何を言っている」
「ヘルメス、キミはなぜラボに来たんだ?」
「人類にとって有益な研究をするためだ」
「名声か?好奇心か?」
「どっちもだ」
 トリトンはようやくモニタから目を離して私を見た。
「キミは甘いな」

 私は思わずトリトンの腕を放した。
 一瞬、トリトンに殺されるかと思った。
「俺のことは放っておけばいいだろう」
「ここは危険だ。放っておけない」
「なぜキミは俺に構うんだ?」
「理由も何もない。逃げよう」
「キミは俺が怪しいと思わないのか?イオ室長のように」

 トリトンの言葉の意味が、しばらく分からなかった。
「何を言ってる」
「今回の事件は俺が引き起こしたと思わないのか?」
「馬鹿なことを言うのはよせ。私を怒らせたいのか」
「やはりキミは甘いな」
 トリトンは椅子から立ち上がり、私の前に立った。息がかかるほど顔を近づけて、言った。

「俺が殺したんだよ。全員な」


ニンゲンラボ #05

2011/03/27



 私はコーヒーカップをトリトンの前に置いた。
 トリトンは怪訝な表情をしていた。

「カフェインは苦手か?」
「キミはおかしな人間だな、ヘルメス」
 私は自分で入れたコーヒーに口をつけた。
「それはお互い様だろう」
「どうやって皆を殺したか、聞かないのかい?」
「聞く必要はない。なぜならキミは嘘をついているからだ」
「嘘?なぜそう言い切れる?」
「ひとつ、もし本当に殺しているのなら、それを私に告げるメリットがない。ふたつ、ラボの人間全員を殺す動機があるならば私はここに生きてはいない。みっつ、警察は自殺だ と断定している」
「冷静だな。しかし俺は嘘など言っていない」
「殺したのではなく死ぬ原因を作ってしまった、とか?」

 トリトンの目つきが変わった。
「イオ室長と同じことを言うんだな」
「あれから会ったのか」
「向こうから訪ねてきたよ」
「何を話した?」
「それを言うとキミがどういう行動を取るか分からないから言えない」
「死にたくなる内容なのか?」
 トリトンはしばらく黙っていたが、ゆっくりと首を縦に振った。
 私は、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。開けてはいけないパンドラの箱を相手に話をしているような感覚だった。
「しかし、内容を知っているキミは今も生きている」
「その疑問に答えたら、事実を言ったも同然になるからやはり答えられない」
「そこまで言われて私が引き下がるとでも?」
「何を言われようと俺が答えられるのはここまでだ」
「なぜイオ室長に話せて私に話せないんだ?」

 トリトンは深呼吸して、私の入れたコーヒーを飲んだ。
「話すつもりだったが、キミに死んでほしくないという気持ちが強くなってしまったんだ。だから言えない」
「トリトン」
「キミはいいヤツだよ。早くラボを出るといい。ここでの話は忘れてくれ」
 そう言うとトリトンはタンパク質解析のモニタに向かった。


ニンゲンラボ #06

2011/03/28



 ガニメデとアルテミスは、ラボのゲートにいた。外には車が停めてあった。
「荷物はいいのかヘルメス、もう行くぞ?」
 手ぶらの私を見て、ガニメデは不思議そうな顔をしていた。
「待たせておいて申し訳ないが、私はラボに残る」
「やめてヘルメス!あなた何を言ってるの!」
 アルテミスが真っ青な顔になった。
「残ったって研究なんてできないでしょう!早く逃げましょう!」
「研究のために残るんじゃないんだ」
「いやよそんなの!みんなで逃げましょう!」
 アルテミスは私の腕をグイグイと引っ張った。
「正気かよヘルメス。お前、頭イカれたんじゃねえか?」
 ガニメデは呆れていた。
「バイオハザードだよ。あそこは気が狂うウイルスが蔓延してんのさ。お前ひょっとして、もうウイルスに感染してんじゃねえのか?」
「やめてガニメデ!そんなこと言わないで!」
「どっちにしろ逃げる気ねえんだろ。先に車に乗ってるぜ」
 ガニメデは肩をすくめてゲートを出て行った。
「行きましょうヘルメス」
「いや、私はここに残る」
「どうして?さっきまで一緒に逃げるって言ってくれてたじゃない。どうして急に残るなんて言うの?」
「確かめたいことがあるんだ。それが終わったら出て行くつもりだよ」
「トリトンね?あいつが余計なことをあなたに吹き込んだのね」
「大丈夫。私は死んだりしない」
「あなたは騙されてるのよ。自殺なんかじゃない、みんな殺されてるのよ!そうよ、最後までラボに残った人間に!」
「落ち着いてアルテミス」
「トリトンが殺してるんだわ、そうとしか考えられない!」
 アルテミスがグイグイと私の腕を引っ張る。どうしても私をラボに残らせないつもりらしい。私はそれに逆らわず、彼女と一緒にゲートを出て車の前まで歩いた。
 車のドアの前に来てもアルテミスは私の腕を離さなかった。
「これじゃ車に乗れないよ」
 不安そうな顔でアルテミスは私の腕を離した。私は後部座席のドアを開けて運転席のガニメデに目で合図をした。
「アルテミス、心配してくれてありがとう。ラボを出る時に必ず連絡を入れる。だから安心して」
 アルテミスを後部座席に押し込み、車は発進した。
 彼女の叫ぶ声が次第に小さくなっていった。

 ラボに残った人間は、私とトリトンの二人だけになった。


ニンゲンラボ #07

2011/03/29



[2023 May.23]

 フィジク室とサイコ室の室長となった私だが、研究員は誰もいないためほとんど仕事にならなかった。
 もちろん仕事をする気など全くない。
 ラボで何が起こっているのか、その真実を知ることだけが今の私を突き動かしていた。イオ室長はトリトンが鍵を握っていると言い、何らかの情報を入手した後に死んだ。いったいどんな情報だというのか。
 死にたくなる情報?
 そんなバカな。聞いただけで死にたくなるものなど思いつかない。トリトンの妄言じゃないのか。しかしイオ室長は死んだ。天才的で探究心が強く、常に前を向いているイオ室長が。

 私はフィジク室で例のノートを広げた。
 アルテミスからフィジク室に行くなと言われていたが、少なくともここに来ただけで死ぬことはないだろう。
 この何の変哲もない夢日記が何か関係しているのか。もう一度内容をチェックしてみたが、日付と取り留めの無い内容が羅列しているだけで特筆すべき点はどこにもなかった。強いて言えば、夢の場所がこのラボ内であることが多いという点だけだ。私も稀に夢を見るが、その舞台はこのラボであることが多い。ラボに缶詰状態で見る夢なのだから当たり前だ。
 では離脱の方か。
 しかし離脱といってもしょせん睡眠時の体感現象でしかない。明晰夢よりレベルは上だが、それが自殺を誘発するというのはありえない。夢も離脱も些細な外的干渉ですぐ解けてしまうものだし、いかに訓練を積んでも長時間維持できるものではない。それに習得には相当な時間が必要だろう。
 だめだ。全く分からない。
 駄目で元々、もう一度トリトンと会ってみるか。

 ケミク室に行くと、トリトンは相変わらずタンパク質の解析モニタを眺めていた。私もそうだが、この男も仕事をする気はあまりないようだ。
「ラボから出ろと言ったのに、なぜまだここにいる?」
 トリトンはモニタを眺めながら独り言のように呟いた。
「ずっと一人は退屈だろう?今日は私と世間話でもしないか」
 私の言葉にトリトンは少し驚いて振り返った。
「ヘルメス、キミは本当におかしな人間だな」
「おかしな人間だからここにいるんだろう?」
 トリトンが少しだけ笑った。この男が笑ったのは初めて見た。

 トリトンがコーヒーを入れてくれた。私たちはガランとした会議室に腰を下ろした。
「今、元素番号の最後は何番だと思う?」
 トリトンが興味なさそうな目で訊いてきた。
「何番だったか、117番くらいかな?」
「俺も知らない」
「おいおい、キミは化学者だろ」
「103以降は知らなくても同じだよ。たった数秒の寿命しかない物質のことを知ったところでどうなるものでもない」
「ならなぜ訊く」
「このラボも同じさ」
 トリトンは大きなあくびをした。
「意味のないことを延々と知ろうとする」
「トリトン、キミはなぜこのラボに来たんだ?」
「別に理由はないよ」
「理由がないって……」
「生きる理由がないと生きてちゃいけないのかい?」
「いや、話が飛躍してる。それにこのラボは無意味じゃない。医学、遺伝子学、化学、生物学、あらゆる分野で重要だ。それが社会を豊かにする。人間はそうやって進歩してきたんだ」
「真面目だな、キミは」
「普通だよ」
「そして少しおかしい」
「お互い様じゃないか」
「こんな話をしていても、俺は何もしゃべらないよ」
「それはもう諦めてる」
「ならなぜここにいる」
「答えっていうのは教えられて見つけるだけじゃないんだよ。こうやってキミと話をすることで何か手がかりが見付かるかもしれない」
「やはりキミは変人だな」
 トリトンは空になったカップを持って立ち上がった。

「いいか、これが最後の忠告だ。俺の話を全部聞いたらキミは死ぬかもしれない。だから絶対に死なないと、今ここで俺と約束をしてくれ」
「当たり前じゃないか。私は死なない。まだこの世に未練がいっぱいあるしな」
「それでは駄目だ。今ここでこの世の全てを諦めてくれ」
 言っている意味が分からなかった。
「いや、それは矛盾してないか」
「俺の話を聞きたかったら何もかも捨てるんだ。それで絶対に死なないと約束してくれ」
「捨てるっていうのは、具体的に何のことを指しているんだ?」
「全てだ」
「それは死ねってことじゃないのか?」
「そうだ」
「いや、キミはさっき死ぬなと言っていたじゃないか」
 まるで哲学だ。いや禅問答か。さっぱり理解できない。
「約束できないなら教えられない」
「とにかく私は死ぬ気などない。それは約束する」
「俺の言ってることが理解できたか?」
「要するに、真実を知ると何かしら絶望するということだろう?だからそうならないように心の準備をしておけと」
「心の準備だけでは駄目だ。全てを諦めてくれ」
 まるで死刑宣告でもされている気分だった。お前を死刑にするが死ぬな、と言われているようだった。
「脅しじゃない。実際に7人もの人間が死んでいる。キミに死んでほしくないんだ」

 どうする。
 聞いただけで死にたくなるなど有り得るのか。
 しかし、トリトンが嘘を言っているようには見えない。
 全てを諦めろ、か。
 もう自分は死んでいるものと思って話を聞けということか。
 聞こうが聞くまいが真実はひとつだ。
 何も知らないで死ぬより、私は真実を知りたい。

「分かった。全てを諦めよう。話を聞かせてくれ」


ニンゲンラボ #08

2011/03/30



 癌治療を目的に研究が進められた放射性タンパク質、二重特異性抗体に新種が発見された。このtb201は脳腫瘍に対する効果が期待されていたが、繰り返されるマウス実験で別の 効果が注目されるようになる。
 tb201を摂取したマウスを調べると、ごく稀に睡眠中でも起床時と変わらない脳波が示されることがあった。tb201の摂取量を増やすと睡眠時間がどんどん増え、最終的に起床しなくなるのだが、脳波だけは起床時と変わらない数値を示していた。このことからtb201は脳と身体の伝達神経の一部を破壊する効果があるとして危険性が示され研究は終了した。
 しかし投薬されたマウスの脳波は最後まで正常値を示していたことから、実験中のマウスは自身が眠っていることに気付いていなかったのではないかと言われている。

「このプロジェクトはヒトの仕組みを解明する研究とは別に身体ネットワークを遮断された人間がどういう体感経緯を辿るか、つまり強制離脱の臨床試験を行っていたんだ」

「私たち研究員に対して治験が行われたというのか?意味が分からない。そもそも強制離脱の研究が何の役に立つのか意味不明だし、目的とリスクが全く吊り合っていない」

「ヒトの研究とtb201治験は行っている組織が違う。このような人道に反する人体実験を州が行うとは思えない。治験の目的はおそらく安楽生命維持が目的だろうが」

「安楽生命維持?」

「安楽死と生命維持。本来なら全く正反対の事だが、薬の力で強制的に永久離脱を誘発させれば重篤患者は苦痛から開放された状態で延命措置が受けられるだろう」

「理論が破綻している。身体をつなぐネットワークを失い続けていれば自我は消失するぞ」

「自我が消えてしまうというのはその通りだろうな。それも含めた臨床試験ということだろう」

「どこの組織がこんな治験を計画してたんだ」

「分からない。そもそも強制離脱に気付けたのは、元々離脱を趣味にしていたフィジク室の連中のお陰だ。tb201かどうかも確定ではない。それらしき資料がtb201だっただけだ」

「その薬はラボの研究員全員に投与されているのか?」

「投与されていない人間がいるとは思えない」

「ラボを去った人間はこのことを知っているのか?」

「知っているのは死んだ人間だけだよ」

「私たちはもう手遅れなのか?」

「それも分からない」

「なぜだ」

「投薬を中止すれば助かるかもしれないが、今この世界が現実なのか頭の中だけの世界か分からないからだ。確認する方法は死んでみるしかない」

「まさか、それで皆は」

「ヘルメス、キミは俺と約束したはずだ。絶対に死なないと」

「もちろんだ。それに離脱中かどうか確認する方法はいくらでもある。そもそも離脱は睡眠時の覚醒状態というだけで、体感する世界は理不尽や不自然の宝庫だ。死んでみなくても分かる」

「だがキミは今まで気付けなかった。離脱を趣味にしていた連中でさえ、薬による強制離脱からは目覚められなかった。一回の投与では命に別状はないかもしれないが、繰り返し投与が続くと睡眠時の離脱時間が長くなる。もしかしたら今は離脱中で、この離脱が最後、現実世界の体はもう二度と目覚めることがないかもしれない」

「しかし…!これほど完全な世界が脳内で作れるわけがない!これを見ろ、ケミク室で私が見たこともない資料だ。ここに私の知識を超えるものが存在している。これは私の脳内世界ではないという証拠だ」

「それが外部から与えられた刺激によるものかどうか、確認のしようがない」

「なぜお前はそんなにも悲観的なんだ。なぜ逃げない」

「7人も死んだことで結果的に皆を逃がすことができたが、次に来る人間は俺が残っていないと逃がしようがない。まあ、信じた人間は死んでしまうから助けようがないし、犠牲者がいなかったらキミも俺の話を信じていなかっただろうが、助かる人間が一人でもいるなら俺はラボに残る」

「このラボは私が潰す。トリトンも早く逃げろ」

「キミに話してよかったよ。だが、今この世界が現実か脳内か、それが分からないと何をやっても無駄に終わる。逃げるのもラボを潰すのも現実世界でやらないと意味がない」

「もしここが離脱世界だとすると、いま私が死んだらどうなる?」

「現実世界に目覚めることができるかもしれないな。俺はキミが生み出した、ただのオブジェクトということになる。もちろん俺はオブジェクトではないし、キミをオブジェクトとも思ってない。だから死ぬなと言っている」

「じゃあ、ここは現実世界なのか」

「俺を信じれば現実世界、疑えば離脱世界だ。もし離脱世界だったら目覚めればラボから逃げることができるかもしれない。投薬も回避できて助かるだろう。しかし現実世界だったら本当に死んでアウトだ」

「今ここはどっちなんだ、教えてくれ!」

「ここは現実世界だ。俺を信じろヘルメス、絶対に死ぬな」


1.トリトンを信じる
2.トリトンを信じない
ニンゲンラボ #09

2011/03/30



「だから俺の言った通りだったろ、ヘルメス」
 私の隣で車を運転するガニメデが得意げに呟いた。
「バイオハザードだったんだよ。あんなラボ、とっとと逃げて速攻で潰すのが正解さ」
「どこの組織が治験してたか、まだ分からないのか?」
「薬はコーヒーから何から、いろんな場所で検出されたらしいからな。何で今まで警察が見つけられなかったのか」
「研究凍結された新薬だ、無理もないだろう」
「役立たず過ぎるだろ。誰の税金でメシ食ってると思ってんだ」
「トリトンは?」
「まだ精密検査を受けてる。まあ俺たちがこんなにピンピンしてんだ、大丈夫だろ」
 車は駅の前で停まった。
「じゃあなヘルメス」
「ああ、世話になったなガニメデ」
「もうその名前はコリゴリだ。ブライアンの方にしてくれ」
「わかった。ブライアン、ありがとう」
「お前の名前は?ヘルメス」
 閉めた助手席のドア窓を開けて、ブライアンが私の名前を訊いてきた。
「私は本名もヘルメスなんだよ」

 駅のホームでアルテミスが待っていた。
「あら?ガニメデは?」
「帰ったよ」
「帰ったって、見送りは?」
「今さっきしてもらったけど」
「ええ?車で?」
「ここまで送ってくれたんだ、それで十分じゃないか」
「しばらく会えなくなるのに、ちょっと薄情すぎない?」
「ブライアンはいいやつだよ」
「そうね。あなたもよ?ヘルメス」
「ありがとう、アルテミス」
「サラでいいわ」
「サラ、元気で」

[2023 June.20]
 製薬会社に勤務していた私にトリトンから連絡がきた。検査が終わり退院できたらしい。彼の入院していた病院は100マイル以上も離れていたが、わざわざ私に会いにきてくれるという。
 命の恩人を盛大にもてなしたかったが「派手なレストランは苦手なんだ」と言われたので私の部屋に招待した。

「退院おめでとう、トリトン」
「ああ、ありがとう」
 私たち二人はお互いの無事を祝って乾杯した。
「ヘルメス。俺のことを信じてくれて、ありがとう」
「いや、正直いうと死ぬ勇気がなかっただけだよ」
 私たちは心の底から笑った。確かに、派手なレストランじゃこんなに思い切って笑うことはできなかっただろう。
「これからトリトンはどうするんだ?」
「地道に就職活動かな。大学の研究室から声はかかってるんだが、学生は苦手でね」
「そりゃ、元素番号もちゃんと勉強しないとな」
「あれは冗談だよ。いくら俺でもちゃんと118番まで言えるよ」

 ディナーを終えるとトリトンは帰り支度を始めた。
「泊まっていかないのかい?」
「キミも明日仕事だろう。まだ電車もあるしそろそろお暇するよ」
「そうか。気をつけて」
「ごちそうさま。また会おう」

 結局、tb201の治験をしていた組織は見付けられなかった。
 時間が経つにつれて、私たちのいたラボもプロジェクトも人々の記憶から薄れていった。
 そういえばトリトンは、最後までトリトンを名乗っていた。(終わり)
ニンゲンラボ #09

2011/03/30



 目覚めの悪さは想像していた以上だった。
 喉の渇きが凄まじく寒気もあり、頭痛と腹痛でしばらく身体を動かすことができなかった。何とか体をよじって周りを見回すと、イオ室長がキーボードを叩いていた。
「起きたか。キミなら起きると信じていた」
 イオ室長は水の入ったペットボトルを持って私のベッドまでやってきた。
「脱水症状の一歩手前だったな。ゆっくり飲め。点滴は一人で打てるか?」
「ここは……」
「心配するな、信頼のおける病院だ」
 水を勢いよく飲んだ私は途中でむせた。
「ゆっくり飲め。しばらく食べ物は無理だろうが、胃腸が回復したら流動食に切り替えるぞ」
 落ち着いて周りをもう一度見回すと、何十人もの人間がベッドで寝ていた。
「これ以上寝たきりが続くと、目覚めた後の回復が困難になる。限界も近いだろうな」

「喋れるか?」
「はい。助けてくれてありがとうございます」
「起きる事ができたのはキミの力だ。パートナーは誰だった?」
「パートナー?」
「キミに様々なアドバイスをして目覚めを助けた人物だ」
「いえ……死ぬなと忠告する人物はいましたが……」
「それがパートナーだ。誰だった?」
「トリトンでした」
「トリトンか。キミの脳内で俺はどうなってた?」
「イオ室長は死にました」
「そうか」
「この場合、目覚めを助けたのはイオ室長ということでしょうか」
「何とも言えんな。パートナーというのは自分の中で作る自分以上の存在だからな」
「自分以上、ですか」
「脳内で自分が考える以上のものを考えるために生み出される自己シミュレーション用の存在だ。だからパートナーは絶対に自分を超える解答を示せない。誘導だけの存在なんだ」
「トリトンはハッキリ死ぬなと言いました」
「何にせよ、それがキミに対する誘導となっていたのは確かだろう。どういう経緯でキミが寝ていることに気付けたか教えてくれないか」
「トリトンからtb201という薬で体内ネットワークが切断されると言われました。それを知らされた人間は皆死んでしまうと」
「OK。念のため確認するが、今この現実にtb201という薬は存在しない。自分の中で整理できるか?」
「まだ、よく現状が掴めていません」
「大丈夫だ。少しずつ現実と刷り合わせていけばいい。日付は覚えているか?今、何月何日か言えるか?」
「5月23日ですか?」
「よし。一日ずつさかのぼっていくぞ。22日はどうだった?」

 イオ室長はゆっくりと丁寧に現状を整理してくれた。
 どうやら私は5月12日から6日間、眠り続けていたらしい。
 今日の日付は5月18日、事件の発端は12日の夜だった。
 この日の夕食に混合されていた薬によってラボの研究員は全員が昏睡状態となった。自力で目覚めることのできた数人の研究員以外は病院に収容され、睡眠状態からの回復を待っ ている状況だった。
「誰が薬を混入したかは分かっていない。薬の成分を調べているが、該当するものはまだ見付かっていない。ただ、キミの夢にあった薬の効果に近い症状であるのは間違いないな」
「どういうことでしょうか?」
「どうも体内ネットワークが切断されていて、今眠っている者は自分が眠っていることに気が付いていないらしい。だから自力で目覚めるしか今のところ回復方法がないんだ」
「イオ室長はどうやって目を覚ましたんですか?」
「私は離脱が趣味だったからな。付けている夢日記のズレで分かった」

 現実では、トリトンもガニメデもアルテミスも眠っていた。
「プロジェクトは凍結されたよ。犯人はまだ分かっていないがラボの中の人間ではないという保障もない。まずは全員の回復が先だな」
「犯人の動機は何だったんでしょうか」
「キミの夢の中ではどうだった?」
「私が見たのは、組織ぐるみ、みたいな感じでしたから……」
「興味がある。話してくれないか?」
「トリトンが言ってたんですが、安楽生命維持だとか」
「安楽生命維持?」
「安楽死と生命維持を両立させるとか」
「面白い考えだな。いや、笑ってる場合ではないが」
「あの、それとは全然関係ない話なんですが」
「何だ?」
「今回の事件で事前の記憶というのは残ってるんでしょうか」

 イオ室長の表情が硬くなった。
「薬の効果が突然出たのか、それとも眠ってる最中に出たのか、そのへんがどうもあやふやで……」
「おそらく、直前の記憶はないだろうな。あったら皆、自分が寝たことに気付くはずだ」
「歩いている最中に昏睡してしまったらケガをする可能性もありますしね」
「ヘルメス」
「はい」
「これから私以外の人間の前で余計なことは言うな、聞くな」
「え?」
「これまで私に話した内容も全部だ」
「あの、突然どうしたんですか?」
「いいから約束しろ。これは室長命令だ」
 イオ室長は今までにないほど険しい表情をしていた。
「わかりました」
 私はその迫力に圧された。

 これからどうなってしまうのだろうか。
 眠っている人たちは目を覚ますのだろうか。
 私に何かできることがあればいいのだが。(終わり)

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