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燃えよ弓

 私が三代目武射葉月流、室生丁子を襲名したのは遠い昔。

 葉月流の射系が騎射から歩射へと転換した際は多くの血が流れた。藩主が騎射を求めているのは先代の頃から承知していた。歩射が刀の地位を脅かすほどの有用性を秘めており、体裁を重視するにあたって刀と共存できる騎射を求めていることも。

 藩は一心流の剣豪、猪方無二斎を抱えるに多くの財を失っている。
 藩の地位を確立するに名のある剣豪を抱えるのは世の流れ。そう言い聞かせていた。戦の世は終わった。やむなしと。武射は時代遅れになりつつある。弓はこのまま礼法の道を歩むであろう。

 その道も悪くはない。
 私が先代から秘伝のみを受け継いでいたのであれば、流れに逆らう気持ちも起こらなかった。しかし私は三重(さんじゅう)弓返しという革命的な射法を生み出してしまった。皮肉にも世が戦を求めなくなった時代に。

 この三重弓返しは騎射では無用の技術。二の足で地に立ってこそ生きる技法である。弓の射法は的との距離で数多く分かれるが、この技法は1丈弱(約3.5m)の距離にある的に対して弓返しの抵抗を限りなく無に近づけることで高速射出を可能とする。弓の特徴、離れの利を捨て威力と連射性を両立させるのである。
 私は年に二度行われる道法茶会でこの技を披露し、藩主の目の色を変えさせた。が、藩主の口から出た言葉は私の期待するそれではなかった。
「次から騎射の披露目にせよ」

 同席していたのは剣豪、猪方無二斎とその門下四十余名。
「弓の利は離れの間合いにあろう」無二斎の目には興味の色すらなかった。

 今が戦の世であれば。
 私は腸が煮えくりかえるのを懸命に堪えた。もはや葉月流の弓は一心流の刀の前座でしかない。奴の刀より葉月の弓が藩の戦を強くする、そう主張するべき道法茶会はもう過去の意味など何も残っていない。ただの茶会だ。

 同日夜、弟子達と道場でのこと。
「三代目秘伝、見事なお手前でした」
 私は弟子達の声を黙って聞いた。その声は私と同じく無念で満ちていた。
「明日より馬の数を半分に減らす」私は決心した。
 これは葉月流が歩射、いや戦のための弓を持つという意思表示であった。

 葉月流門下の数は日に日に減っていった。
 今や私と志同じ弟子は両の手で数えるほど。藩主の意向を無視する私に付いていけない者を恨む道理などあるまい、そう己に言い聞かせていた。

 在る日、私は河原で両手の無い弟子の遺体を見付けた。
 加賀谷伝二。私の志を理解する数少ない愛弟子だ。
 初太刀で腕を落とすのは一心流の特徴。

 頭に血が上った私は一心流道場へと馬を走らせた。無二斎の返答次第で一心流と戦になろう。いや、無二斎の返答などどうでもよい。
 私は心のどこかで奴との決戦を望んでいた。


燃えよ弓 其ノ弐

2008/04/18



 一心流道場の門を開け弟子数人に取り押さえられた時、私は初めて自身が丸腰であることに気付いた。

「葉月一家がここに何の用だ」
 私を取り押さえるのは心当たりがあるからに他ならない。
「加賀谷伝二の件で参った。猪方無二斎殿にお目通し願いたい」

 右脇の弟子一人が私の右親指を折りにきたので、ヒジでそいつの眉間を叩き払いのけた。 弟子が地面に倒れるのと同時に刀を抜いた者が3人。それに気付いて私を取り押さえていた者が離れて間合いを取った。

 成るほど伊達に一心流を名乗っているわけではなさそうだ。
 左の親指を狙わなかったのは道の違いか。しかしこの状況あまり良くは無い。しばしの膠着の後、離れから新たな弟子が現れた。
「無二斎様がお会いになるそうだ」


「一心流の礼儀は全力を尽くすこと」私の前で無防備に茶をすする無二斎。
「…貴殿がやったのか」
「いや、弟子の嘉川小五郎がやった。わしは現場におったわけではない」
「丸腰の者を全力で斬るのが一心流の礼儀なのか」
「何を言ってもお主には詭弁にしか聞こえまい。小五郎は丸腰など斬らんよ」

 私は初めて無二斎を間近に見た。
 歳の頃は四十路前後、体格は細く背丈は五尺八寸はあろう。抱えの武士は丸くなりがちであるが、この男はとにかく細い。少なくとも鍛錬を怠っている無価値な抱えではないようだ。

「小五郎殿と会わせていただきたい」
「会ってどうするつもりかね?」
「経緯を尋ねる」
「それでお主が納得できぬ場合は?」
「その時でないと分からぬ」
「わしが立会い人になっても良いが…」
 無二斎は笑った。
「弓を持って小五郎を射るのに立会いも何もないとは思わぬか」
「貴様ッ!」
 私は屈辱を我慢した。この男は私を斬る理由が欲しいだけなのだ。

「弓に対して刀は無力。それで良いではないか」
「挑発しているつもりか」
「戦で朽ちるは槍か矢か。そのような理屈が千年と続いてきた。剣の道を歩む者がその千年をどう見てきたか分かるまい」
 戦で役に立たぬ刀を極める。確かに私には理解できぬ領域であった。
「不服かね。その剣に己の地位を奪われるのが」
「私は伝二の件で参った。武の道を説くつもりはない」
「さて。その者は先だっての道法茶会が気に入らなかったようだが…」
 今まで飄々としていた無二斎が獣のような表情になった。

「当主が持ってるもんは弟子のそれより軽いのかね」


 私はそれ以上無二斎と言葉を交わすことなく道場を後にした。
 一時の感情に流されあの場で命を失うより、私にはやるべきことがある。奴には奴の義があるように、私にも私の義がある。

 そして私の義を一心流四十余名全員に食らわす。


燃えよ弓 其ノ参

2008/04/29



 私は道場に残った六人の弟子を集め、今日を持って葉月の看板を降ろす旨を伝えた。彼らの身を日陰流瀬戸一徹庵に託したことも。
 もちろんこの愛すべき馬鹿弟子たちが大人しく言うことを聞くはずもなかった。一心流と事を起こせば藩にはおれぬ。私は弟子達にこの地から離れることを約束させた。納得させるまで何発も殴った。

 それから私は戦に勝つための準備を始めた。

 一心流は無二斎含め総勢四十六名。最低でも矢はその三倍の数は必要であろう。足を殺さぬため一度に持てる矢はせいぜい十程度。このままでは話にならぬ。

 決戦の地に矢の仕込みをする必要がある。野戦であれば馬が使えるが、弓を相手にのこのこと野に出てくる阿呆どもではあるまい。奴らの道場に単身乗り込むほか無い。
 火を回すのは藩では大罪、兵を呼ぶ理由を与えては駄目だ。弓、鉄砲を用意されても勝機はない。奴らにも信念はあろうが、一方的な攻めを前に気が変わることは十分考えられる。一心流が後に引けぬようにしなければ。

 私は町に看板を立てた。
 元三代目武射葉月流、室生丁子が一心流全員に決闘を申し込むという噂は二日と経たず藩に広まる。

 町人の大方の反応は室生丁子が殺されるというものであった。
 弓一本で四十名を超える侍と決闘するなど自殺行為らしい。しかも相手は世に名高い一心流とその門下、天下の無二斎であれば矢も落とせる。室生丁子は何もできぬまま逃げ回るのが落ちであろう、と誰もが口にした。

 そう、それでいい。一心流が逃げられぬ理由さえできれば。

 いよいよ決戦の日、私は馬に乗せられるだけ乗せた矢百十本を持って早朝の一心流道場へとやってきた。約束の日を伝えているのにもかかわらず、道場はたったの二名しか見張りを置いていなかった。

 私は迷わず馬に乗ったまま矢を一本射ち、一人の腹を抜いた。【一人】
 馬に気付いたのと一人が倒れるのがほぼ同時であり、残した一人が大声を上げるのと私がもう一矢射るのも同時であった。二射目は距離が近く、矢じりが胸から出て血を噴き出させた。【二人】

 私は馬から降り、すぐさま矢筒を外した。筒には矢が二十五本入っており、それを馬に四つ取り付けている。私の背には矢が十本入る筒がある。門を開けすぐ目の前にある池に矢筒一つを静かに沈めた。まだ人影はない。二つ目の矢筒から矢を三本づつ取り、道場屋敷の庭へ滅茶苦茶に投げた。

 筒が空になる直前、数人の人影が見えた。私はすぐに門外へと引き返し馬にまたがった。馬には残り二つの筒が付けてある。そこから二本の矢を取って背の筒に補充した。

 少し馬を走らせ門を振り返り弓を構える。無防備に二つの死体に近寄る者が いたため、容赦なく射った。
 一射目は横に逸れたが、二射目は横腹に刺さった。【三人】
 三射目で左腕に刺さった。十人ほどの団子になっている奴らの数を減らすのは今が絶好の機会だ。
 四射目で首に刺さる。【四人】
 五射目で横に外れ、六射目で右足に刺さる。七射目で腹に刺さる。【五人】

 七射までの間は十五秒ほど。少し急き過ぎて当たりが悪い。馬に固定している筒から矢を五本取って背中の筒に入れ、馬から降りた。一団の二人がこちらに無防備に走ってきたため射った。
 一射目は腹に刺さる。【七人】
 二射目で至近距離となった残りの者の顔に刺さる。【八人】

 残り二人が奥へ引っ込み、門が閉まった。致命傷の八人以外、私の前から人影はなくなった。傷負う者を構えば死体が増えることを今頃知ったようだ。

 私は背の矢が十本になるよう補充した。
 馬に積んである矢の残りは三十九本。


燃えよ弓 其ノ四

2008/04/30



 地に伏した八人が動かなくなっても門は開かなかった。これ以上待っても奴らは動かぬであろう。

 私は塀に着けた馬の背に立ち中を覗った。屋敷から木が死角になる塀の位置を確認しそこに馬を着けて矢筒二本を塀の屋根に乗せた。すぐさま塀の屋根に上がると門の前で無防備に佇む者が二人いたので射った。
 一射目で一人の腹に刺さる。【九人】
 二射目で肩に刺さり、三射目で逃げる一人の背に刺さる。【十人】

 これが世に名高い一心流なのか。弓の対策など何一つ立てておらぬ。刀に溺れ戦の本質を見失ったのか。

 そこからは多くの血が流れた。
 背に矢を受けた者の大声を聞き無防備に出てきた二人を射る。【十二人】
 刀を振り回しながらこちらに向かってくる者を一人。【十三人】
 すぐ後ろの四人が同時に走ってきたが、手にはやはり刀が握られていた。五射で三人が倒れる。【十六人】
 一人はすぐ私の下まで来たが構わず射った。【十七人】
 その刀で塀の上にいる私に何をするつもりだったのだろうか。

 この九射で蜂の巣を突付いたように人の団子が出てきた。私はゆっくりと背の筒に矢を九本入れ残りは屋根に置き、背の矢は使わず直に撃ちまくった。私の下に来るまで人の団子が半分に減った。その半分は屋敷に引き返している。刀が何本か飛んできたがこちらまで届かなかった。私は塀の下の団子を撃ち続けた。【三十一人】

 ようやく戸を持った者が屋敷から出てきた。残り矢は十九本、背の矢が十本。木を挟んだ反対側から火を持った者一人と、それを戸で隠す者が一人見えた。屋敷からじりじりとこちらに近づいてくる者を合わせて計六人。

 顔を出す動作が恐ろしく速く、これを狙うのは諦めた。いよいよ残りの者は容易に討たせてはくれぬ猛者たちのようだ。しかしこの動きはあるひとつの確信を私にもたらした。

 奴らは弓を持っていない。
 戸に隠れている者の中にあるいは鉄砲を持っている者がいるかも知れないが少なくとも弓を持っている者は屋敷にいない。

 一人が戸を持ち一人がその後ろに身を隠す、これが三組。そのうち一組は 火を持ち塀伝いに近づいてきている。
 ここは退くべきか。
 このまま待っていると塀に火を放たれる。それを避けて外に逃げればもう屋敷に入る好機はないかもしれない。塀から中に飛び降りると奴らの間合いになる。この高さから落ちれば着地に足を取られ、その隙に斬られるだろう。

 私は右手に矢を持ち、口に二本咥えて塀の屋根を走った。おそらく着地にかかる時間は二秒。その時間を稼げる間合いを取れる距離まで走った。
 それまでじりじりと動いていた奴らが小走りになった。すぐに屋敷から新たな戸を持つ者が現れる。時間に余裕はない。奴らから最も間合いの遠い着地場所を見付けたが二秒も稼げるか分からない。

 気の焦った私はまるで吸い込まれるかのように屋敷の中へと身を投げた。


燃えよ弓 其ノ伍

2008/05/01



 塀から屋敷へ飛んだ衝撃で足に電流が走り、咥えていた矢を落とした。
 奴らはそこを見逃さなかった。戸を持って全力疾走してくる者が一人。その後ろに一人。反対からは戸を捨て刀を持って走る者が一人。後ろに一人。

 私は戸を持った者に近い道を選んで走った。背にある十本の矢が忙しく鳴り、足で奴らを離すことはできぬと知らせた。
 それでも私は全力で中庭を目指した。
 飛ぶ前に見えた奴らの数は八人だったが、今私を追っているのは四人。残りはおそらく反対から回り込んでいる。

 万事休すか。
 一瞬そう思ったが、中庭まで走りついて私に再び希望が沸いた。四尺ほどの高さの灯篭があったのだ。
 私は灯篭に進路を変え、手に持っていた矢をつがえた。灯篭を回って前を見ると、戸を持たぬ者が間近に迫っていた。

 一射目でその者の肩に矢が刺さる。
 なおも構わず前に出てきたが、それが災いして背後から走ってきた者の進路を妨害する。私は灯篭を左周りに足を止めず二射目を撃ち、背後の者の左腹に矢が刺さった。【三十二人】
 肩に矢を刺した者が灯篭を力づくで倒そうとしたところで三射目の矢が胸に刺さる。【三十三人】

 戸を持って走っていた者が追いつき足を止めた。
 私は弓を引いたまま突進し、戸を思い切り蹴飛ばし背後にいる者に向けて射った。胸の真ん中を射抜き血が吹き出た。【三十四人】
 間髪入れずに後ろに身を引いて矢をつがえるのと、残り一人が戸から刀に持ち替えるのが同時。近距離で射った矢は腹を抜いた。【三十五人】

 追ってきた四人と反対の方角から再び別の四人が現れた。戸を持っているのは一人だけ。私の持つ矢は残り六本。

 足を止め地に立った状態ならいける。
 三重弓返しの極意。
 離れの間合いと足を捨て高速連射を可能にした葉月の新たな秘伝。

 中庭の状況を瞬時に把握した四人は、戸を持った一人を前にして皆がその後ろに隠れた。そのままゆっくりとこちらに近づいてくる。

 二丈(約6m)、三重弓返しの間合いに入った瞬間、私は一射目を撃った。戸を持った者の手を射抜き、すぐに二射目で戸の右端を撃つ。片手で支えきれぬ戸が宙を舞い、それが地に付くまでに撃った三射目は戸を持っていた者の腹を射抜いた。【三十六人】
 腹をやられた者が残り三人の直進の妨害をしている間、私の弓はくるりくるりと回転しながら残り四本の矢を全て吐き尽くした。

私に一丈の距離まで近づけた者は一人もいなかった。【三十九人】


燃えよ弓 其ノ陸

2008/05/02



 矢を無くした私は門を目指して走った。
 庭に矢をばらして投げたのは奴らに回収させる時間稼ぎの策であったが、真のねらいは池に隠した最後の矢筒に気付かせぬようにするためである。

 はたして、池の中に矢はあった。
 すぐに引き上げ十本を背の筒に入れる。一本を手に持ち、残り十四本は池にそのまま沈めた。

 奴らは残り何人なのか。人影が見えぬ所を見ると、皆やってしまったのか。いや、残っている者ほど手練と考えぬと命を失う。これほど血が流れているにもかかわらず、まだ無二斎の姿は見ておらぬ。
 弓を前に姿を見せぬのは達人の証。敵は屋敷の中で身を潜めている。刀が戦で最も真価を発揮するのは屋内である。狭い通路では槍も突くだけの武器と成り下がり、弓は離れの利を失う。

 私は足でゆっくりと屋敷の戸を開けた。やはり敵の姿は見えぬ。
 これ以上奥に踏み込めば挟み撃ちで死ぬ。奥に行かねば敵を討てぬ。慎重さと大胆さのさじ加減を見誤るな。根比べなら私の望むところだ。

 どれほど時が過ぎたか。
 全神経を耳に集中させていた私は、外から何者かの足音を聞いた。半開きにした戸から中の私は見えないようにしてある。向こうは私に気付いていない。攻めるなら今。

 私は戸の外へ躍り出た。
 足を止めず直進で走りながら周囲を見る。視界の端に人が見え、向こうの刀の間合いに私がいることを悟る。
 私は思い切り後ろに飛びながら弓を引き、相手に刀を一回振らせた。距離を詰めながら返す刀と私の射出が同時。

 刀は私に一歩届かず、矢がその者の腹を射抜いた。【四十人】
 誰かが小五郎の名を叫び、戸から二人が飛び出した。矢を二人に向けるが先ほど矢を腹に受けた者が倒れず私を妨害する。
 血の気が引いた。すぐに踵を返し、全力で走った。誰かが「追うな」と大声を上げる。近くに足音がないのを確認して振り返った。

 距離にしてまだわずか二丈。腹から血をあふれさせた男が刀を捨てた。

「我が名は小五郎。これで仕舞いにしてはくれぬか」

 奴は伝二を斬った男だった。


燃えよ弓 其ノ七

2008/05/03



 臓腑の汁が体内に漏れると助かる見込みはない。特に胃が破けると腹を溶かし始める。すぐに命を取らぬのが矢の恐ろしさである。死ぬまで途方もない苦痛を味わうため、介錯が必要となる。
 しかし小五郎は仁王立ちで同じ言葉を繰り返した。
「我が命で仕舞いにしてくれぬか」
 その言葉は一心流の敗北を意味していた。全滅を避けるため小五郎は結果 の見えた勝負に挑んだのだ。
 私は全てを捨てこの戦にきた。伝二の仇そして葉月の誇りを賭けた戦だった。小五郎の脇にいる二人が歯を食いしばって大粒の涙を流していた。己の全てを刀に捧げてきたであろう男達が、己の無力さに涙を流している。あるいは一人でも弓を持つ者がいれば、私は早い段階で地に伏していただろう。

「承知した。小五郎殿の介錯を」
 伝二の仇は取った。これ以上奴に地獄の苦しみを味あわせ続けるのも本意ではない。
「かたじけない」小五郎は崩れ落ち、一人が彼の首に向けて刀を振った。

 小五郎の名を叫び屋敷から二人の男が出てきた。一人が戦の終結を伝え二人が吼える。私は早急にこの地を離れる算段を考えていた。表の馬はまだ生きているのだろうか。
 いや。
 何か引っかかる。
 どうして無二斎が姿を見せないのか。刀と弓は勝負にならないと言っていたのは奴だ。かような結果になることは予測できたであろう。
 私はこのまま帰れるのか。戦は終わったと。
 否、奴は私と同じだ。姿を見せない理由はただひとつ。

 奴はまだ勝つ気でいる。

 四人が刀を持ち私に突進してきた。
 彼らもまた己の信念に生きる者たちである。殺気は微塵も消えていない。戦の終結を聞いて「はいそうですか」と刀をしまうにはあまりにも多くの血が流れすぎたのだ。この戦はもはや後に引けぬ所まできており、私の首を取っても終わらぬであろう。葉月の血を根絶やしにするまで奴らは止まらぬ。
 私は三重弓返しで三回転した後、後に飛び刀を避けた。【四十二人】
 背から矢を取るのと二人が間合いを詰めるのが同時。一人が刀を縦に振りもう一人が邪魔にならぬよう地を蹴って私に砂を飛ばす。弓を構える時間すらなかったのが幸いし、後方に走っていた私には刀も砂も届かなかった。斬撃で足を止めてくれたお陰で八尺ほど間合いが取れ、一人の腹を射ってすぐに後方へ駆ける。【四十三人】
 背の矢を取り構えると最後の一人が刀を振ってきた。私は落ち着いて後ろに飛んで避け、胸を射った。【四十四人】

 戦から降りた気持ちが残っていたならば、あるいは屋敷の中であったならば、私は間違いなくやられていただろう。

 戦はいよいよ猪方無二斎との直接対決を残すのみとなる。


燃えよ弓 其ノ八

2008/05/04



 室生丁子の三重弓返しで放たれる矢は時速250km秒速70mに達していた。これは現代のアーチェリーとほぼ同等の速度である。的からの距離6mで射出した場合、矢が目標に到達する時間は0.085秒。この短時間で矢に横の力を加えても運動ベクトルは劇的に変わらない。変わるほど大きな運動量を与えても、矢の途中が切断するだけで矢じりは的に直進する。
 つまり矢を横から落とすことは物理的に不可能である。避けるならば矢の進行方向に物を当て、先端からベクトルを変えるしかない。

 矢の軌道が分かれば可能といえる。しかし撃ち手ですら完全に制すことが不可能な矢の軌道を、的側が正確に読めるはずもない。結論からいうと矢はかわしたり落としたりといった表現をするものではない。外れるか外れないかでしか表現できないのだ。

 刀と弓が対峙した場合、両者が勝負にならないのは戦に出た者なら誰もが分かること。無二斎はそれを承知した上でこの戦に挑んでいた。
 若かりし頃の無二斎は刀を出世の道具と思う、どこにでもいる侍であった。名のある剣豪を討ち修羅場を抜ける過程で彼は、戦の本質が死なないことだと悟る。
 無二斎の刀は己の命を守る道具へと変化した。
 だから丁子が丸腰で道場に来た時、有無を言わさず斬るべきであった。
 小五郎が丸腰の伝二を斬ったように。

 一心流の剣は己の命を守ることを道としていた。相手を生かせば己が死ぬと判断したならばたとえ丸腰であっても即刻斬れと説いていた。道法茶会の件で勝負を名乗り出た伝二を斬った小五郎は忠実に一心流の道を貫いたといえる。
 全く同じ立場で丁子と対面した無二斎は、しかし斬らなかった。
 深い意味などなくただの意地である。藩で最強と呼ばれる弓の腕を持つ室生丁子でなければ迷わず斬っていただろう。あの腹に刃を立てるその瞬間、丁子の手には弓がなければならない。

 屋敷へ奉公する者は全て引かせたが、刀こそが全てと信じる弟子達は一人も引かなかった。馬鹿で結構、しかし戦に出るからには勝つ。勝つとは生きることであり、それこそが彼の、一心流の道であった。

 無二斎はずっと厠にいた。
 あるいは勝つ可能性に賭けるならばここしかなかった。厠が危険なことは向こうも承知であると分かっていてそこから動かなかった。
 弟子の声が聞こえなくなって気の遠くなるほど時が流れた。
 無二斎は気を緩めなかった。奴はそこにいる。厠の戸に弓を構え、無二斎が出るのを待っている。

 室生丁子の三重弓返しは道法茶会で見た。間合いを犠牲にしているが、おそらく最も犠牲にしているものは足。奴は必ず足を止めて弓を撃つ。距離にして二丈、この間を詰めるまでに矢を退ければ勝機はある。

 勝負は一瞬だった。

 厠の戸を開け、風呂の蓋を盾に突進する無二斎。
 室生丁子は三重弓返しで弓を回転させる。
 一回転、二回転でも蓋は飛ばない。
 それでも丁子は回転を止めない。
 三回転目の前に無二斎が蓋で丁子に体当たりを食らわす。
 走りの勢いで丁子を蓋ごと押し倒す。
 そのまま左手に持った刀で突く。
 わずかに感じる肉の感触。しかし浅い。
 次の一振りに入った刹那、無二斎の腹に電気が走る。

 まさか、という思いと信じられぬ、という思いか交錯した。
 倒れて蓋まで覆いかぶさっている状態で弓など使えるわけがない。しかし無二斎は次の一振りを入れられず、丁子を間合いの外に逃す。

 弓が無情にも回転を始めた。
 無二斎の全身に電気が走り天と地の感覚がなくなった。
 矢の一本が心臓を抜き、無二斎は介錯の必要もなく倒れた。【四十五人】


 距離を詰めれば丁子に武器はない、と踏んだ無二斎の腹に彼は直接手で矢を刺していた。


燃えよ弓 其ノ九(終)

2008/05/05



 私は足を引きずり道場の門を目指した。
 最後の刀で足の肉を切られ、歩くのも困難になっていた。無二斎に勝てたのは偶然だ。左での刀が足ではなく腹に入っていたら死んでいた。あるいは二回転の直後、まだ矢を持つ前に体当たりをされても逃げられなかったであろう。今こうして生きているのが不思議に思われるほど、奴は強かった。

 息のある者の介錯に回る余裕もない。ようやく門前の池に着き、隠していた残りの矢を取り背の筒に入れられるだけ入れた。
 馬は生きているだろうか。
 門が間近になり気が緩んだその刹那、背後から地面を蹴る音が聞こえた。

 不覚。
 とっさに地面の砂を取り後ろに投げつける。足の踏ん張りが利かず地に転がるが、それが幸いして私に刀は当たらなかった。

 まだ残りがいた。
 最後の一人は目に手を当て動きを止めていた。砂が効いたのか。しかし完全に視界を奪うまでには至っておらず、地に転がっている私に刀を向けた。
 死ぬ。
 砂を何度もかけて斬撃の邪魔をするが、立てない私がこの状況を打開できるはずもなかった。転がって間合いを取ろうとして、背の矢筒が邪魔をした。

「見苦しいぞ室生丁子」
 男は勝利を確信して笑みを浮かべた。
 砂を取った私の手には弓もない。無様に地を這っている私を見て余裕が出たのか、男はすぐに斬ってはこなかった。
「間近で死合もできぬ弓屋風情の屑が」
 男は足で私に砂をかけ、大きく踏み込んで刀を振った。

 肉を斬る音はしなかった。
「弓をなめるなよ」
 男の驚愕した顔を前に私は、背の矢を両手で十本取って刀を受けていた。
 刀は矢を四本ほど切って束にからまり、力づくで抜こうと男が引っ張る。私は左手で矢の束を持ち、空いた右手で矢の一本を男の腹に刺した。男は大声を上げて私から離れた。
 手で刺す矢はさほど深く体には入らない。致命傷でなくともいい、弓を持つ時間が稼げればそれでいい。
 私は最後の力を振り絞り立ち上がった。手にしかと弓を持って。

 戦の終結となる矢は男の胸へと深く刺さった。【四十六人】


 馬は生きていた。
 私は足を引きずって馬の背に乗った。
 一刻も早くこの地から離れなければ。真の勝利とは生きてこそ得られる。まだ戦は終わっておらぬ。日が暮れるまでに藩を出ねば追手に見付かる。急ごうと馬を早く走らせるほど足の激痛にうめいた。
 そして馬を走らせたまま気を失ってしまった。


 気がつくと床の中にいた。
 身を起こすと横に見慣れた顔があった。弟子の一人、二之宮宋弥である。
「ご安心くだされ。敵はおりませぬ」
「まだ藩の中なのか」
「はい」
「あれほど藩から離れろと命じておいたのに馬鹿者が。して、なぜ私を見付けられた」
「当主を見付けたのは私ではありませぬ」
 私は一心流の道場から二里ほど離れた所で、馬の上にいる所を付近の農民に見付けられた。この戦の結果を知った藩主は私の捜索と保護を命じたという。

「葉月の弓は藩の誇りだとおっしゃられておりました」
 藩主を見返すための戦ではなかった。あるいは戦のない世に己の価値を見出せず、死に場所を探していたのかもしれぬ。


 あの多くの血が流れた戦はもう遠い昔の出来事。
 明日、私は葉月流三代目当主を退き、新しい四代目に後を託す。
 戦のない世にあっても弓の魂は決して燃え尽きぬ。(終わり)

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