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0種感染症

(※この物語はフィクションです)

 感染症は多くの人命を奪う。
 そのため日本政府は感染症を危険性の高い順に一類から五類に分類し、それぞれに法律を定めている。新種の感染症の感染速度が法の制定に間に合わない場合は「新感染症」として分類し即時対応してきた。
 エボラ出血熱、ペスト、結核、コレラ、狂犬病など多くの感染症は日本政府によって厳重に管理され拡散を防いでいる。そのお陰で日本国民は安全な生活を送ることができるのだ。

 もう7年くらい前だろうか。
 今、世界中で猛威を振るっているあの感染症が日本で発 見されたのは。
 いや、発見されたという表現は正しくない。なぜなら過去にあの病気に感染していた人間は存在していたのだから。正確には無害と思われていたものが感染症として認定されたのだ。

 2018年、少子化が世界中で問題視されるようになり、原因と対策が練られた。その中で、ある学者がこの感染症を発見したのが始まりだった。
 NOF感染症と名づけられたこの新種の感染症は当初学会でも受け入れられていなかった。何より感染した患者の生命には何ら危険性はなく、害となる症状もいっさいない。
 しかしこの感染症に疾患すると「子供を残せない」のだ。
 この部分が着目されはじめるとNOF感染症は世界中に危険な病気として広まり、対策が練られるようになった。

 日本政府も早急に法の制定を行った。
 当初は3種感染症としていたが、学会の研究が進んでいくにつれてその危険度が判明すると3種から2種へ、そして1種へと強制措置の段階が上がっていった。
 NOF感染症は子供を残せないだけではなく、他者に感染する力が非常に高かったのである。一人が感染するとほぼ100%もう一人の感染者がいるという研究成果が残っている。ただし二次感染力はあまり強くなく、一人に感染しきったらその感染力は大きく弱まる。

 NOF感染症に対する有効な治療法はなかった。
 研究者の多くがNOF感染症に感染していった。爆発的な感染力の前に現代の医学はあまりに無力だった。いまだに世界中で治療に成功した報告が一件もない。

 害となる症状がなく、健康体の人間と何ら変わりない生活ができる。違うのは子供を残せないという一点のみ。
 命は奪わず種の未来だけを奪う病気。NOF感染症はこれまでのどんな病気にもない、優しさと残酷さを持っていた。
 強力な伝染力があるため隔離が必須となるが、患者数が100万人を突破した段階で1種感染症のレベルを超えていた。

 各国の間でNOF感染症に関する様々な協議が行われた。
 最も深刻だったのは北米で、NOF感染症の数は800万人を超えていた。最小被害国はドイツの僅か280人だった。
 ドイツはある対策を行いNOF感染症の被害を最小限に抑えていたのだが、それは施行時に世界中から批判を受けていたものだった。
 年に1回行われる先進12カ国NOF感染症対策協議会でドイツの出生率の大幅な回復を見たイタリアはドイツに続き例の施策を行う旨を表明した。懸念を示す国は全くなかった。

 日本政府はついにNOF感染症を0種感染症とした。
 0種感染症の例はない。1種感染症よりも高い強制措置で隔離も困難な感染症に適用される特別な法的措置となっているが、人道に大きく反するという理由で適用された感染症はこれまでひとつもなかった。

 殺処分。
 ドイツの行った施策とは感染者を即刻殺すことだった。NOF感染症はヒトの殺処分を法的に行う最初のケースとなり、0種感染症の施行時に100万人の命が日本から消えた。
 この年、NOF感染症の患者数は100万人から0人に減った。0種感染症の発表と日本総理の辞表が出されるのは同時だった。その2週間後、重責に耐えかねた元総理は自害した。

 しかしこれで全てが終わったわけではなかった。
 NOF感染症に発病していないが感染力を持つ保因者、キャリアの存在である。実際に早期から殺処分に踏み切ったドイツですら完全に0人にできていないのは、このキャリアが 毎年発生しているからだ。
 NOF感染症を完全に消すには全ての国民を検査し陽性を示す人間を殺処分するしかない。

 日本は年二回の精密検査が義務付けられるようになった。
 それはまるでロシアンルーレットの日だった。
 知らないうちに感染しているかもしれない伝染病。万が一、検査で陽性の結果が出れば死ぬしかないのだ。検査の内容は極秘とされていた。ネットの噂では陽性を示した場合、赤い紙が送られてくるとも黒い救急車で迎えにくるとも言われているが定かではない。
 2025年現在、1回の精密検査で陽性を示す人間は国内で500人ほどだが、0人になることはなかった。人々はいつ終わるとも知らない0種感染症のロシアンルーレットに恐怖していた。

 私はこのNOF感染症を研究している医者の一人だ。
 昔は治療法を発見する希望を持っていたものだが、博士号をいくつも持っている人間ですら不可能な答えを凡人の私が見つけることなどできるはずもなく、治療研究は頓挫している。
 治療が無理ならせめて感染しない方法でもいい、とにかくNOF感染症と戦う方法を模索していた。

 ある日、私の元に一人の女性が尋ねてきた。
 既に日は暮れており、予定していた患者との面会も全て終わっている。時間外の問診をする気力もないほど疲れていた私は、どうやってこの突然の患者をあしらおうか考えた。
 しかしその女性は開口一番、信じられないことを言った。

「私、NOF感染症なんです」


0種感染症 #02

2010/09/07



 子供を残せなくなるNOF感染症が爆発的に流行し、世界規模でヒトの殺処分が行われている2025年の日本で、私は肺を専門とした外科医をしながらこの感染症を研究していた。
 ある日、私の元に自身がNOF感染症であると告白する患者が現れた。

「私、NOF感染症なんです」

 彼女の言葉を理解した瞬間、私はこの感染症を研究しているうちに同じNOF感染症にかかって死んだ多くの研究者を思い出した。
 目の前の女性がまるで死神に見えた。
「安心してください。先生にはうつしませんから」
 何を言っているのか理解できなかった。感染症が自分の意思で伝染をコントロールできるなどありえない。
 私は医師になって初めて患者に対して恐怖心を覚えた。
「お名前は?」
 私は動揺を悟られまいと精一杯強がってみせた。NOF感染症の患者と対面したことはあったが、自らこの病気をカミングアウトされたのは初めてだった。
 死を約束されている目の前の女性はにっこりと微笑んだ。
「申し遅れました。私は須藤理恵といいます。先生はご存知ないかもしれませんが、先生の高校の2年後輩なんですよ」
 聞いたことの無い名前だった。心のどこかで全部嘘であってほしいと願う自分がいた。
「先生、NOF感染症は害となる症状が一切ないと言われていますけど、自覚症状はあるんです」
 未だ治療に成功した例が一件もない、殺処分対象の0種感染症にかかっているにもかかわらず、須藤理恵と名乗る女性には全く悲壮感がなかった。それがかえって不気味に見えた。

「私に何の用でしょうか?もう問診の時間は過ぎていますよ」
「先生がNOF感染症の研究をしていると聞きました」
「酷ですが今の医学に0種感染症の治療法は存在しません」
「今までに存在しなくても、これから存在するかもしれないわ」
「私に治療法を見つけろとおっしゃるのですか?」
「私を使って研究していただきたいんです」
「0種感染症は発見しだい殺処分するのが決まりです」
「次のNOF検診まで二ヶ月あります。どうせ死ぬなら何かの役に立ちたいんです。お願いします。失敗してもどうせ死ぬんです、構いません。先生の好きに研究してください」

 私は感心していた。
 職業柄、末期がん患者を多く診てきたがこれほど芯のしっかりした人間は初めてだった。死に対する恐怖と絶望よりもしっかりと前を見て最後まで生きようとする姿に感動すら覚えていた。
 しかし0種感染症は発見しだい殺処分しなければならない。感染者を故意に隠蔽する行為は、危険度の高い伝染病を拡散させるテロと同じだ。極刑は免れないだろう。
 普通に考えて、そんな危険な賭けをしてまでNOF感染症を研究する医者などいない。私は今までNOF感染症を何とかしようと研究していたが、感染者を隠蔽しながら拡散のリスクを背負おうのは人道に反する気がした。
 それに私だってまだ死にたくはない。

「なぜ私を訪ねたのですか?」
 赤の他人のために自分の命を投げうってまで研究する人間がいると思っているのなら、彼女がしていることは勇気ではなく無謀だ。それほど私がお人よしに見えたのだろうか。
「理由は言えません…」
 これまで立派な態度を崩さなかった彼女が初めて力なくうつむいた。
「先生にご迷惑はおかけしません。自覚症状の有無はあまり知られていませんし、私は肺を患っていることにすれば第三者には分かりようがありません」

 確かに自らNOF感染症と告白する人間は見たことがない。
NOF検診までに治療法の発見が間に合わなくても、誰も私を伝染病拡散の犯人と断定することはできないだろう。
 これが最後のチャンスかもしれない。私がNOF感染症と戦う最後のチャンスかもしれない。この機会を逃してしまったらもう二度とあの病気と闘えない気がした。
 しかし、なぜ私を訪ねた理由が言えないのだろうか。
 医師と患者は信頼関係が大事だ。患者が隠し事をしていては治療もままならない。小さなことだが始めにはっきりさせておくべきだろう。
「分かりました。しかし今後は私に対して隠し事はしないと約束してください」
「ありがとうございます!」
 私の返事を聞いた彼女は満面の笑みで喜んでいた。
「それでは教えてください。なぜ私を選ばれたのですか?」

 彼女はうつむいたまま何も言わなかった。
 心の準備がいるのかと思いしばらく待ったが、彼女は無言でうつむいたままだった。
「医師と患者は信頼関係が不可欠です。これでは治療法の発見もままならないのは分かるでしょう?さっきまでの勇気はどこに行ったんですか。死ぬ気なら何でも話せるでしょう」
 少し配慮に欠けた言葉だったが、私は強引に話を進めた。
彼女はずっと思いつめた顔をしていたが、ようやく観念して口を開いた。

「やっぱり言えません。それを教えたら先生にNOF感染症がうつるかもしれないんです」


0種感染症 #03

2010/09/09



 子供を残せなくなるNOF感染症の流行でヒトの殺処分が行われている2025年の日本。肺専門の外科医をしていた私の前に自身がNOF感染症であると告白する「須藤理恵」と名乗る女性が現れた。
 理恵はNOF検診までの二ヶ月間、自身を研究材料として私に治療法の研究をするよう懇願してきた。その理由を問うと理恵はこう答えた。

「やっぱり言えません。それを教えたら先生にNOF感染症がうつるかもしれないんです」

 全く意味が分からなかった。
 そういえば理恵の言動は最初から意味不明だった。自らの意思で感染をコントロールしているかのように振舞うこの女はいったい何者なのだろうか。
 ただの無知なのか医者を馬鹿にしているのかは知らないが悪意はなさそうなので簡単に説明したほうがいいだろう。
「須藤さん、感染症というのは病原体が宿主に及ぼす病気を言います。病原体の移動により感染するのであって、宿主の意思で感染するものではないんですよ」
 もちろん宿主が周りの人間に感染しやすいように咳や痰を撒き散らすという行為もあるが、理恵の場合はそういうものではない。明らかに言葉によって感染するようなことを仄めかしている。

「既に人間全員に病原体がある場合はどうなりますか?」
 理恵の思わぬ反論に私は次の言葉が出なかった。
 NOF感染症の病原体は未だに正体不明だった。それが治療やワクチンの研究が進まない大きな理由でもあった。NOF感染症発表当時、ヒトに伝染する病気ではなく遺伝子系の病気ではないかという反対論者も多くいたが、全ての調査結果がこの病気を「病原体のある伝染病」と示している。現在NOF感染症を感染病ではないと言う者はほとんどいない。何かしらの病原体が原因であることは間違いなかった。

 そしてNOF感染症の病原体が全人類に存在しているという仮説はこれまで学会でも何度か出ていた。
 もちろんこの学説は公式に否定されている。もし肯定してしまったら病原体保持者を殺処分している今の体制だと全人類を処分しないと感染病は無くならないという結論になって しまうからだ。
 しかし、否定するに十分な学説もない。公式の否定となっている理由は単に病原体の正体が分からず証明できないだけだ。仮にこの仮説が真実であったとしても世の中をさらに混乱させるだけだろう。

「まさかキミは、人類全員がNOF保持者であることを証明して殺処分を止めようと考えているのか?」
 NOF感染症はヒトの命を奪わない。ただ子供が残せないだけで他に害となる症状は全くなく、患者の命を奪っているのは人間の定めた法だけなのだ。だから殺処分を止めることができれば理恵の命は助かるだろう。
 しかし仮に実際そうだとして、それを世に伝えることができるのだろうか。0種感染症が制定された段階でもう後戻りができない所まできているのではないか。事実の隠蔽で私の研究も私自身も消されるのではないか。

「それができないことくらいは分かっています」
 理恵は私の言葉を否定した。それは研究が成功しないというより、成功しても殺処分は止められないと言っているように思えた。
「殺処分の停止は、ある意味、NOF感染症を治療するよりも困難だと思います。既に世界で3000万人の命が失われていますし、法の施行のために総理は命を失いました」
 理恵は私の思っていることを全て代弁した。2ヵ月後に死が迫っているにもかかわらず冷静な彼女に、私は感心した。

「私はただ先生にNOF感染症の正体を突き止めていただきたいんです。そのためなら死んだってかまいません」
「キミの熱意はよく分かった。今日は突然のことで私も十分な準備ができていないし、日を改めて診察をしたいと思うがどうだろうか?」
「はい。全て先生のご都合に合わせます」
「時間が無いというのは私も十分理解している。可能な限り早くスケジュールを組むつもりだ、一緒にがんばろう」
「はい!よろしくお願いします!」

 何度も頭を下げて診察室を出て行く理恵の姿をぼんやりと眺めてから、私は彼女がいなくなって改めて気が付いた。
 理恵が私を選んだ理由を聞いてなかったことに。


0種感染症 #04

2010/09/11



 子供を残せなくなるNOF感染症の流行でヒトの殺処分が行われている2025年の日本。肺専門の外科医をしていた私にNOF感染症を告白する「須藤理恵」と名乗る女性が現れた。
 理恵はNOF検診までの二ヶ月間、私に治療法の研究を懇願してきた。私はNOF感染症と戦う最後の機会だと思い治療の了承をしたが、なぜ理恵が私を選んだのか知ることはできなかった。

 理恵と面会した翌日、私はかつて同じ大学で研修していた同期の友人で食道を専門とした外科医の芳原卓真の所へと向かった。彼はかつて私と共にNOF感染症の研究をしていた同士の一人だ。もちろん芳原には理恵のことは伏せてある。

「久しぶりだな林。患者をほったらかして俺に何の用だ?」
「お前と会う時間くらい作れるさ」
「ヒマなのか、羨ましいな」
「仕事だよ。NOF感染症の研究を再開しようと思っている」
「あれはもう終わっただろ。俺たちじゃ手に負えないっていう情けない研究結果が出たじゃないか」
「お前に預けているNOF感染症患者のカルテとCTのコピーをあるだけ全部よこして欲しい」
「何があった」
「それとついでにお前の時間も欲しいんだが」
「南田のことを忘れたのか?また仲間を殺すっていうんならお断りだ」
「お前に危険は及ばないようにする」
「ふざけんなよ、そんな問題じゃねえだろ。南田のことを全然反省してねえのかって聞いてんだよ」
「あいつの死を無駄にしたくないんだ」
「俺らの誰かがまた死んだらそれこそ無駄死にだろうが」
「私はまだ諦めてない」
「何があった?なぜ突然こんな話をする」
「何も無い。NOF感染症と戦う意思はずっと変わってない」
「言えよ。何かきっかけがあったんだろ?」
「きっかけなら毎年あるじゃないか」
「なんだよ」
「あと2ヶ月したら南田の命日だ」
「NOF検診か」
「あれが来るたびに無念で潰されそうになる。自分の無力さに腹が立つ。おそらく死ぬまでずっとそうだ」
「それが俺たちの背負った業なんだよ」
「悪かった。お前の時間が欲しいという話は無かったことにしてくれ。カルテとCTのコピーだけ貰う。それでいいだろう?」
「駄目だ」
「分かってくれ芳原」
「分かってないのはお前だ、林。俺に危険が及ばないようにするという考えを改めない限りコピーは渡さん」
「お前、まさか」
「林まで死んじまったら寝心地悪いしな。お前が変な気を起こさないようカルテとCTを預かったのに結局俺まで折れたら意味ないわ」
 芳原はにやりとした。
 南田がいたら何と言うだろうか。私は友人の変わらぬ友情を噛み締めた。

 芳原の命を懸けた協力を受けたが、理恵の事はまだ伏せている。理恵も命を懸けて私を頼っているのだから、まずは彼女に許可を貰うのが先だろう。
 私が芳原を頼ったのは、彼が精神療法に優れているからだ。芳原は外科医だが、食道という患者が躊躇しやすい部分の治療をスムーズに行うため臨床心理士の資格も持っている。心理学資格の中で難易度が高いものを外科医でありながら有している彼は、仲間の中で最も天才肌の医師だ。
 そんな稀有の才能を持つ芳原がいても同士の南田はNOF感染症に感染してしまう。それほどこの病気は感染力が高く危険なのだ。
 しかし芳原がいないとNOF感染症の治療法を見つけることなど不可能だ。それほど彼は素晴らしい医師の才能を持っている。理恵には芳原との協力を許可してもらいたかった。

 その日、理恵は昨日と同じ時間に私のいる診察室にやってきた。私はさっそく芳原の名前を出し、彼の協力が治療に不可欠であることを話した。
 しかし理恵の表情は暗かった。
「先生の研究の為なら何でもします。けれどできれば私のことは言わないで欲しいんです。わがままですみません」
 理恵の気持ちは分かる。NOF感染症をカミングアウトするだけで相当な死のリスクを背負っているのに、その情報を他者に漏らすのがどんなに怖いか想像に難くない。
 何とか理恵の存在を伏せて芳原と連携するしかないのか。しかしそれでは芳原の才能を生かせない。病気の治療は患者の力が大きく左右する。彼は対話をすることで患者の力を引き出し治療に役立たせる稀有な才能の持ち主なのだ。
 何より命を懸けて協力を申し出た彼に失礼な気がした。
「キミは死んでもいいと言ったが、医者は患者を死なせてもいいと思って治療などしない。キミの治療は彼の協力なしでは成功しないんだ。彼もキミと同じ命を懸けている。キミが彼 との協力を許可してくれなければ私もこれ以上治療できない」
 私は思っているありのままを理恵に伝えた。芳原を信用できない患者は救うことができない、そんな気持ちだった。

「少し、気持ちを整理する時間をください。決心ができたらまたお伺いいたします。わがままばかりで本当にすみません」
 大きく落胆した理恵はよろよろと椅子から立ち上がった。そのまま、おぼつかない足取りで診察室を出て行った。
 思うようにいかず焦っていた私は、しばらくして自分の言ったことを後悔しはじめた。あまりにも患者のことを考えていない自分勝手な主張だった。芳原にも理恵にも失礼なことを私はしてしまったのだ。
 結局私は逃げていただけではないのか。芳原に頼っているだけで本気でNOF感染症と戦おうという気持ちがなかったのではないか。私を頼ってきた患者に対し、私はそういう姿を見せてしまったのではないか。
 時間が経つにつれて私は激しく後悔していた。何と拙い医者であろうか。こんな未熟者に、世界で誰も治療できない難病を治すことなどできようか。その自責の念が渦のように勢いを増して、NOF感染症と戦う気力をどんどん奪っていった。

 翌日、理恵は来なかった。
 残り二ヶ月がジワジワ削られていく感触がして寒気がした。時間がない。理恵は来ない。芳原に合わす顔がない。どうすることもできなくて私はただ焦っていた。


0種感染症 #05

2010/09/13



 子供を残せなくなるNOF感染症の流行でヒトの殺処分が行われている2025年の日本。肺専門の外科医をしていた私にNOF感染症を告白する「須藤理恵」と名乗る女性が現れた。
 私は理恵の治療を承諾し、同士の外科医芳原の協力を得たが、理恵は芳原の協力を断り気持ちの整理をさせてほしいと言って私の前から消えた。

 理恵が来なくなってから5日が過ぎた。
 NOF検診まで残り56日しか無い。有効な治療法を発見しても、それを実行し理恵が治癒するまでには時間が必要だ。まだ手がかりすらない状態だが、最低でもNOF検診の3週間前までには治療法を見つけないと間に合わないだろう。
 つまり理恵から治療のヒントを得られる研究時間は、わずか1ヶ月ほどしかないということになる。
 その肝心の理恵が来ない。状況は最悪だった。私はどうすることもできなくて、気が付くと南田の墓の前にいた。

 私はかつて5人の同士と共にNOF感染症の研究をしていた。全て同じ大学にいた仲間だった。思えば最初にNOF感染症を研究しようと言い出したのは南田だったし、最も研究熱心だったのも南田だった。
 4人の同期仲間で立ち上げたNOF対策プロジェクトのリーダーを務めていたのは、私たちの恩師である波多野茂久教授だ。私たちは先生を尊敬していた。先生がいなければプロジェクトすら立ち上げることはできなかっただろう。
 芳原は大学時代から天才肌だった。同期四人の中で最も成績が優秀で、プロジェクトの中核にいる存在だった。
 芳原を支えていたのが大場だ。大場の父親は日本医師会の幹部で絶大な政治力を持っていた。彼は父親の権威を嫌っていたが、その政治力を駆使して当時入手困難だったNOF感染症の膨大な研究データやカルテ、CTをプロジェクトにもたらしてくれた。NOF感染症の研究は二次感染が危惧されて相当な圧力がかかるのだが、大場の存在はその圧力を物ともしなかった。もちろんNOF感染症患者は発見しだい殺処分が義務付けられているので、生きた状態の患者を研究することはさすがの大場でも無理だった。
 南田と一番仲が良かったのが西畑だ。西畑は普段無口で神経質な性格のため、とっつきにくい人間だったがなぜか南田とは打ち解けていた。泌尿器を得意としていたのでNOF感染症の唯一の害症である「子供が残せない」という原因を突き止めるのに最も近い存在だった。しかし南田が死んでから彼は医者の道を降り、故郷の高知へと帰った。

「林か」
 私の背後から声がした。大学時代によく聞いた声だった。
「お久しぶりです、先生」
 南田の墓の前で、私はかつての恩師、波多野先生と出会った。外科医の仕事が忙しくなってから私たちは恩師と会う時間も減っていた。
「いつも来てるのか」
「いえ、考え事をしていたらいつの間にかここに来ていました」
「何か悩み事か」
「いえ」
「死人は何も答えちゃくれんぞ」
 先生は手に持っていた日本酒を南田の墓石にかけた。トク、トクという音だけが辺りに響いた。私たちは静かに手を合わせた。
「医者は何だと思う?」
 先生は半分残った日本酒のビンを墓前に置きながら聞いてきた。私はとっさに答えが思いつかなかった
。 「林、答えてみろ。医者は何だと思う」
 昔、同じ質問をされたことがあったのを思い出した。答えが何だったのか忘れたが、自分なりに考えてみた。
「医者は人間だと思います」
 医者はどんな命でも救える神ではない、救えない命があるからこそ医者は人間なんだと思った。人の命を左右する立場にいるからといって驕ってはいけない。そう思った。
「違うわアホ」
 私の答えは簡単に一蹴された。人間じゃなかったら医者は何だというのだろう。神か、悪魔か。
「医者は詐欺師だろうが」
 思い出した。確かに答えは詐欺師だった。そういえば西畑が顔を真っ赤にして反論していたな。私も当時は意味が分からなかった。
「明日死ぬ人間にも最後まで治ると言い続ける。それが医者ってやつだ。病気を治すから医者なんだ。自分には治せないと患者に言う奴は医者じゃない」
「それで、治せない病気もあるから詐欺師なんですね」
「クランケの前じゃ我々はどんな病気でも治せる神でなくちゃいかん。そういう覚悟を持っとけ。お前のその情けない顔は何だ、ん?詐欺師失格だ林」
 そう言われて私は理恵のことを思い出した。
 彼女の前で私は何度言っただろう。NOF感染症は治療できないと。私には無理だと。

 私はNOF感染症と戦うことばかり考えていて、医者としての本分を忘れかけていた。NOF感染症の治療法を見つけるのが目的じゃない、理恵の命を救うことが私のやるべきことなのだ。恩師の言葉でやっと思い出した、私は医者なのだ。
 先生に礼を言い、私はすぐに病院に戻り芳原からもらったカルテとCTをもう一度全部チェックしはじめた。正体不明の病原体の発見ばかりに気を取られていたが、一番重要なのは子供を残せるようにする治療だ。泌尿器は私の専門ではないが不得意分野でもない。むしろあの四人の中で診断は私が最も得意とする所だ。理恵が帰ってくるまで必ず有益なデータを見付けだしてみせる。

 NOF感染症を治療できる神はまだいない。ならば私がその神になろう。


0種感染症 #06

2010/09/15



 子供が残せないNOF感染症の流行で人の殺処分している2025年の日本。肺専門外科医の私はNOF感染症を告白した「須藤理恵」の治療を承諾し、天才医師芳原の協力を得たが理恵は芳原の協力を断り気持ちの整理をさせてほしいと言って私の前から姿を消した。
 自分の不甲斐なさに失望した私は恩師、波多野先生に医者の本分を教えられ、再びNOF感染症と戦うことを決意した。

 泌尿器から有益なデータが得られなかった私は、調査範囲を遺伝子にまで広げていた。NOF感染症が流行した初期段階では遺伝子の病気であるとする学説も多く、すでに患者のDNAは研究され尽くしていたが、検証結果は遺伝子に異常はないというものしかなかった。
 それでも私が遺伝子を調べる理由は、そこから病原体の正体を突き止めるためではなく、あくまで理恵が子供を残す方法を見つけるためだ。
 子供が残せるならNOF感染症ではない。
 NOF感染症の病原体が何であろうと、子供さえ残すことができればいいのだ。それが医者としての本分だと気付いた。

 そのために必要なものは理恵の卵子だった。
 理論上、精子と卵子に異常が無ければ受精して受精卵が形成されるはずだ。もちろん母体や子宮内の状態も大きく左右するだろうが、試験管ベイビーであろうと子供が残せればNOF感染症ではない。
 ただ、卵子を取り出す時期がNOF検診とずれてしまうという問題をどうするか。仮に今、理恵の卵子から胎児ができたことを証明しても、NOF検診で陽性が出たらアウトだ。証明した時から検診までに発病したと認定されて殺処分対処となる。
 NOF検診で陽性が出てから卵子を取り出し受精させることは、今の0種感染症の強制対処範囲を超えてしまい犯罪となる。法を犯して無実を証明する場所は世界に存在しない。
 つまりNOF検診が終わったらすぐに卵子を取り出し、検診で陽性の結果が出る前に受精卵を作るしかない。これならNOF感染症ではないと正当に証明できる。

 はたして私にできるだろうか。
 たった一度のチャンス。失敗は許されない。正常な受精が行われても確実に胎児までいくわけではないし、どの状態を持ってして「子供が残せた」という証明になるのか法的解釈も容易ではない。トロフォブラストの確認までできて立証するべきか。しかしそれだと受精から1週間近い時間が必要だ。私は陰性の検診結果を毎回一週間後に受け取っているのでそれでは間に合わない。
 受精卵ができてから可能な限り早く立証するべきか。
 しかし受精後数時間程度の受精卵では弱すぎる。受精卵は人ではないと認識する国もまだあるし、受精卵からES細胞を作っていた時代から法の整備もあまり進んでいない。法廷で戦う時間が長くなると判断され殺処分を先行されたら、いくら受精卵が赤ん坊まで育っても意味が無い。
 それ以前に理恵がこの方法に同意するか分からない。
 彼女に懇意の男性がいるなら双方の同意を得て実行できるかもしれないが、私事の内況によってはモラルの問題が立ち塞がる。
 どう考えても分の悪い勝負だ。
 しかしNOF感染症から理恵を救うには、殺処分を止めるしか方法はない。誰も正体をつきとめられない病原体を見つけるよりも、理恵に子供を生ませるほうが助かる可能性は高い。
 きっと生まれるはずだ。
 精子と卵子に異常がないのなら受精できないわけがない。

 理恵が来なくなって1週間が過ぎた夜、私の携帯に着信があった。かつて南田と仲の良かった同期、西畑からだった。
「芳原から話は聞いた。電話ではできない話がある。M駅の 西口にいるんだがこれから会わないか」と言われた。
 西畑とほとんど親交がなかった私は最初驚いたが、芳原が何か重要な件で西畑と連絡を取っていたかもしれないと思いM駅西口へと急いだ。

「久しぶりだな林、元気か」
 三年ぶりに会った西畑は少しやつれて見えた。私たちは自然とひと気のない所へと足が向かっていた。
「痩せたな西畑。仕事が忙しいのか?」
 以前、南田と親しかった西畑は、南田の死後、医者を辞め実家の高知へ帰郷していた。
「何とか食っていけるほどにはな」
「NOF感染症の話か」
「ああ」
「その前に聞かせてくれ。お前は南田が死んであの研究に否定的だったはずだ。なぜ今になって私と話す気になった?」
「お前にだけは聞かせておこうと思ってな」
「芳原は?」
 西畑は首を横に振った。
「波多野先生も知らない」
「何だ」
「南田のことだ」
 西畑は胸ポケットからたばこを取り出した。火は付けずに箱をトントンと叩いてから、私の顔を見ずに話しはじめた。
「あいつはNOF感染症患者と極秘に接触していた」
 心臓が高鳴った。それは南田がNOF患者と会っていたという事実より、私が理恵と会っていることがバレたのではないかという焦りのほうが強かった。
「NOF感染症は、人によって自覚症状がある。検診前に南田は、ある患者からNOF感染症を告白された」
 私は動揺していた。あまりにも状況が似ている。
「南田は患者に、俺たちのチームで研究してもいいか交渉をしていたが、患者は嫌がっていた」
 まさか。
「その患者の名前は?」
 私は無意識のうちに南田が会っていたという患者の名前を聞いていた。これほど状況が一致しているなら、まさか。

「藤岡杏子だ」
 初耳の名前を聞いて私は安堵していた。理恵ではなかった。冷静に考えればその年のNOF検診で殺処分になる運命であるのに理恵のはずがない。
 しかし西畑はなぜこんな話を私にするのだろうか。
「NOF検診の結果は1週間後に分かるのではない。陽性はその日にすぐ分かる。殺処分はNOF検診を行った当日に行われるんだ。なぜか分かるか?」
 衝撃の事実だった。私が計画していた理恵を助けるプランが音を立てて崩れた。
「分からない。なぜだ」
「検診後に精子や卵子を取り出せないようにするためだ。おかげで南田が計画していたことはパァになった」
 南田は私と同じことを考えていたのか。
 目の前が真っ暗になった。もう理恵を助ける方法は思い浮かばない。0種感染症を甘く見すぎていた。
「西畑、なぜお前がそんなことを知っている?」
 嘘であってほしい、そう思って西畑に聞いた。
「南田は計画が万一失敗に終わった時のために陽性後の自身の記録を残していた」
 西畑はたばこに火をつけた。
「それを託されたのが俺だ」


0種感染症 #07

2010/09/17



 子を残せないNOF感染症を殺処分している2025年の日本。
 私はNOF感染者、須藤理恵の治療に難航していた。理恵と会って一週間が過ぎた頃、私はかつての同士西畑から呼び出され、NOF感染症で死んだ南田の真実を聞かされた。

「南田は計画が万一失敗に終わった時のために陽性後の自身の記録を残していた。それを託されたのが俺だ」
 西畑はたばこをふかした。
「南田はNOF感染症が病気ではないという結論を出していた。陽性の判定が出た者に子供を残す計画の裏で、検診の抜け道も模索していた」
 確かにNOF感染症が広まる以前にも同じような症状を持つ人間はいた。そして当時は病気と認定していなかった。
「検診後に精子や卵子を取り出す時間を与えず即殺処分する理由はひとつしかない。NOF患者は子供を残せるということだ」
「何を言っているんだ。そもそもNOF感染症は子供が残せない病気を指している。子を残せるなら病気じゃないだろう」
「だから病気じゃないと言ってる」
「しかし」
「林」
 西畑は私の言葉を遮った。
「人工授精の研究をしている俺に南田から依頼があった。そこで初めて事実を聞かされたんだ。俺は全てを了承し極秘で人工授精を行い、そしてNOF感染症の藤岡杏子から受精卵が生まれた」

 信じられなかった。
 もし西岡の言っていることが本当なら世紀の大ニュースだ。NOF感染症患者から子供が生まれれば殺処分する意味など全くない。早急に発表する場を設ける方法を考えるべきだ。
「こんな簡単なことがなぜ今まで誰もできなかったのか?できなかったんじゃない、やらせてもらえなかったんだ」
 確かに、3000万人もの命を奪った殺処分が不当なものだったという研究成果はそう簡単に発表できるものじゃない。
 しかし0種感染症に認定する前ならいくらでも方法はあったはずだ。強制措置のない段階ならNOF感染症の患者に人工授精を行うのも難しくなかったに違いない。
「ドイツで世界初の0種感染症が施行される少し前のことを覚えているか?アルマ・ガルの大規模感染事件だ」
「ああ」
 まだNOF感染症に法的な強制措置がない2019年初め、世界的なビッグアーティスト、アルマ・ガルがドイツで20万人コンサートを行った。その際にアルマがNOF感染症をカミングアウトし、当時コンサートにいた観客に大規模集団感染するという事件があった。アルマのNOF感染症は強力な一次感染だったため、ドイツではNOF感染症が爆発的に増えた。その年のドイツの出生率は0.4を下回り、NOF感染症の強制措置が加速していった。
「出生率の低下は自然授精の限界を指していた。そこで人工授精を一般化する方策を出していたら違った未来になっていたのかもしれないな。いや、それでは駄目か」
 西畑は短くなったタバコをポケット灰皿に入れて、もう一本タバコを取り出して火を付けた。
「あと5年、いや3年あれば分化万能細胞の研究も進んでいたはずだった。まるでそれを妨害するかのような出来事が多発していたのは偶然とも思えない」
「まさか政府がグルになっているとでも言うのか?」
「政府は犠牲者だ。前総理も命を落とした」
「じゃあどこが圧力をかけているんだ」
「どこが悪いという話でもない。実際にNOF感染症に強制措置がないままだったら出生率の低下に歯止めが利かなかったのも事実だ」
「NOF感染症は病気じゃないんだろう?」
「少なくとも南田は病気じゃなかったと思っている。俺はな」

 二本目のタバコをポケット灰皿に入れた西畑は、三本目を吸おうとして止めた。
「気をつけろよ林。芳原はお前がNOF患者とコンタクトを取っているかもしれないと勘付いているぞ」
 いきなり自分の悪事を指摘され、私の心臓は高鳴った。
「なに言ってるんだ」
「あんまり芳原をナメるなよ。ダテに心理士の資格は持ってないからな。南田のことにも勘付いていたくらいだ」
「いや、私は別に」
 西畑はタバコを懐にしまい、一枚のカードを私に差し出した。
「持っとけ」
「これは?」
「南田が命に代えて遺したNOF検診のデータだ。もっとも、オリジナルは俺が持ってるがな」
「お前、NOF研究から降りたんじゃなかったのか」
「俺は俺のやり方でやってきた。医者をやめたのもその為だ」
「これからどうするつもりだ」
「これまで通り、俺なりのやり方でやっていく」
「いったいどんなやり方を」
「それはまだ教えられない。まあ機会がきたらお前にも協力してもらうかもしれんが」
「なぜ隠す。今すぐにでも協力したいんだが」
「戦場で二人固まって一緒に死ぬより、バラけてどちらかが生き残ったほうがいいだろう?どのみち今の段階じゃお前に協力してもらうことはない」
「しかし」
「お前にはお前にしかできないことがあるだろう?」
 私のやろうとしていたことを数段先で実行していた人間を前に、私にしかできないことなんて思い付かなかった。
「私は何をすればいい?」
「それはお前が見つけるしかない。俺がそうだったようにな」
「どうしてこれを私にくれたんだ?」
「お前に死んでほしくないからな。また連絡を入れる」
「助かる」

 西畑を見送って時計を見ると夜の10時を過ぎていた。診察所に手荷物を取りに帰ると、扉の前に須藤理恵が立っていた。


0種感染症 #08

2010/09/18



 子を残せないNOF感染症を殺処分している2025年の日本。
 私はNOF感染者、須藤理恵の治療に難航していた。かつての同士西畑からNOF感染症で死んだ南田の真実を聞かされた私は、その帰りに須藤理恵と会った。

「先生、長い間すみませんでした」
 理恵は私の顔を見るなり深々と頭を下げた。
 私は嬉しさと焦りが入り混じった何ともいえない気持ちになったが、すぐに理恵を診察室に招き入れた。
「キミの都合も考えず勝手なことを言って済まなかった」
「いえ、私こそ何でもすると言っておきながら自分勝手なことをしてしまいました。先生の言うことは何でも聞きます、これからもよろしくお願いします」
「いや、芳原には伏せてキミの治療を行う。キミのことは誰にも言っていないから安心してほしい」
「本当にありがとうございます」
 理恵の声は詰まっていた。泣くのを必死に堪えているようだった。気丈な態度を取ってはいたが、彼女だってやはり不安で怖いのだ。間違いを犯さなくて本当に良かった。
「さっそく治療に入ろう。今日は夜も遅いから簡単な問診をして終わる予定だけど、次に来る時は精密検査をしようと思っている。朝食を抜いて前日夜に検便、当日朝に検尿を忘れず に。これまでのように夜ではなく朝に来るようにね」
「わかりました」
 理恵の復帰に喜んでばかりもいられない。残された時間はわずかだ。1分1秒でも時間が惜しい。理恵に記入してもらった問診表には特筆すべき点は見当たらなかった。

 理恵が帰ってから私は、診察室でひとり頭を抱えていた。
 人工授精による受精卵の証明に全てを賭けていた私は西畑の話を聞いて理恵を助ける手段を無くしていた。検診当日に殺処分が行われるのならば証明しようがない。病気ではないのなら治療のしようがない。
 NOF検診を何とかしなければ。
 もちろんあれは人命を左右する検査だ。生半可な精度ではない。しかし突破できる道は必ずあるはずだ。
 NOF感染症のまま検査だけ陰性を得るのは明らかに違法行為。ばれればテロ加担者として処罰されるだろう。医者として取る行動を超えている。
 なぜ私はここまでして理恵を助けようとしているのだろう。
 南田の無念を晴らすためか。健気に私を頼る患者に感情移入しているからか。不当な殺処分に異論があるからか。全部当てはまっているが、それだけでは説明しきれない何かがある気がした。

 NOF検診は全国800ヶ所にあるNOF総合検診センターで一ヶ月かけて一斉に行われる。検査時間は一人1分ほどで終わり、1週間後に通知が来る。規模にもよるが一日で平均4~5000人をひとつのセンターで処理するので周辺地域は相当混雑する。
 西畑の話では陽性反応を示した人間は当日に殺処分が行われるという。検診は規模が大きく医療関係者も多数関わっているが、外科医の私でもこの事実は知らなかった。
 私は西畑から貰ったメモリカードをPCに挿した。
 画面に映し出されるデータ群を見て、私は息を飲んだ。
 検診に関わる施設、人物、機器、スケジュール、判定基準が大量に網羅されていた。まさにNOF検診の全てを記しているといっても過言ではないデータが揃っていた。
 南田が集めたのだろうか。これほどの機密データを。どうやって?私は携帯を握り西畑の番号を押そうとしてやめた。こんな話とても電話ではできない。

 心強いデータを貰ったが、しかし同時に絶望した。
 これほどのデータを持っていた南田ですら、NOF感染者が検診で陰性を示す方法を見つけられなかったということだ。私より数段先を行っていた南田ですら死んだんだ。
 どうすればいいんだ。
 西畑は「自分なりのやり方で戦う」と言っていた。
 どんな方法を考えているんだ。NOF感染者が子を残せる方法か。検診で陰性を示す方法か。殺処分を止める方法か。
 私に何ができるんだ。
 西畑にできなくて私にできることは何だ。
 大学仲間4人の中で私が最も優れていたものなんて、診断くらいしか思い付かない。心理療法も遺伝子療法も外科手術も、私より得意な者はたくさんいる。
 今の私にしかできないことは何だ。

 理恵か。
 今の私の優位点は、理恵という協力者がいることか。
 西畑もNOF感染者に協力してもらっているかもしれないしだからこそ私と協力できないのかもしれないが、それでも理恵の存在は私にとって大きい。南田もNOF感染者と協力してダメだったが、私はNOF感染症になっていない。だからこそできることがあるはずだ。
 まずはNOF検診で陰性を示す方法を探そう。
 南田が駄目だったからといって理恵も諦めるにはまだ早い。検診のデータはあるのだから、理恵が前回行った検診の情報を聞きだして彼女に特化した方法を見つけよう。
 翌日の朝、私は理恵の精密検査を行った。
 異常はどこにも見られなかった。強いて言えば理恵の元気がないことくらいだった。
「昨日は遅かったから疲れてるみたいだね」
「いえ、大丈夫です」
「今日は帰ってゆっくり休むといい」
「あの、先生」
「何?」
「お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか」
「何でも聞いてごらん」
「とても失礼なことで恐縮なんですけど」
「構わないよ」
「先生は患者の裸を見ても何とも思わないのでしょうか?」
 いきなり突拍子もない質問に私は絶句した。
「す、すみません。今のは忘れてください」
「いや、まあ、職業柄そういうのは感覚が麻痺しているから、異常を探したり治療を考えることに集中して雑念は全く湧かないよ。いちいち気にしていたら大変だ」
「そ、そうですよね。それを聞いて安心しました」
「今回の精密検査で何か不快に思ったことがあった?」
「いえ!そういう意味ではなくて、すみません!」
「いや、謝らなくていいよ。言いたいことがあったら隠し事しないでどんどん言ってほしい」
「先生は、患者さんから『やさしい』って言われたことありますか?」
 理恵の質問は、NOF感染症とは全く関係がない、私のことばかりだった。しかも質問の内容は突拍子もないことばかりで返答に困った。
「そうだな、治療が終わったらみんな感謝してくれるけど、やさしいって言われることはあまりないかな。厳しいことも言うし」
「そうですか」
 理恵の顔色が急に悪くなっていった。どうしたのだろうか。
「大丈夫?今日は無理せずに帰ってゆっくり休みなさい」
「先生、先生、あの、私の治療はもうこれで終わりにしてくれませんか」
 理恵が慌てて帰り支度を始めた。あまりに突然のことで私は呆気に取られた。理恵がドアノブに手をかけようとした所でようやく事態を把握した私は、理恵の手を掴んで引き止めた。
「ちゃんと説明しなさい!私に何か不満があるのなら教えてほしい、頼む!」
 私に掴まれた腕を見て、理恵は力なく床に腰が落ちた。
 急にどうしたのだろうか。いったい理恵に何が起こっているのだろうか。私はどうすればいい?
 掴んでいた手を離すと、理恵はしくしくと泣き始めた。

「先生に…先生に…NOF感染症が伝染してしまった…」


0種感染症 #09

2010/09/19



 子を残せないNOF感染症を殺処分している2025年の日本。
 私はNOF感染者、須藤理恵の治療に難航していた。かつての同士西畑からNOF検診のデータを受け取り理恵の治療に当たっていたところ、突然理恵が泣き始めた。

「先生に…先生に…NOF感染症が伝染してしまった…」

 私が、NOF感染症に?
 何を言っている?根拠は?なぜそんな事が言える?
 混乱している私の横で理恵は「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら謝り続けた。
 まさか、そんな。
 NOF感染症の自覚症状なんて一切感じなかった。今も何も感じられない。いや、NOF感染症に自覚症状があるというのも珍しいケースなので当然といえば当然なのだが。
 嘘だと思った。
 そんなことありえないと思った。
 自分に限って感染するなんて、絶対ないと思っていた。
 信じられなかった。
 理恵の言葉が信じられなかった。

 私は床で泣き崩れている理恵を優しく立ち上げて、椅子に座らせた。理恵が落ち着くまで充分待ってから、聞いた。
「どうして私がNOF感染症に感染したと思ったのか教えてくれないか?」
 理恵は目を真っ赤にして首を横にブンブンと振った。
「言えないのかい?」
 理恵は首を縦に振った。
 これでは埒があかない。NOF感染症はひょっとして精神不安定になる症状があるのかもしれない。焦らず彼女を追い詰めないように接していかなければ。
「今日は帰ってゆっくり休みなさい。ただし明日も必ず来るように。約束できるかい?」
 理恵はしばらく考えてゆっくり首を縦に振った。

 理恵が帰ってから私は休憩室でコーヒーを飲んで一息ついた。思えばNOF感染者と本格的に接したのは今回が初めてだ。初回でこれじゃ先が思いやられる。
 まさか自分がNOF感染者と呼ばれるなんて。
 しかも患者から。
 馬鹿馬鹿しい、と苦笑いして缶コーヒーを飲み干した。
 気が付くと、缶コーヒーを持つ手が震えていた。

 怯えているのか。
 怖いのか、私は。
 本能で認めているのか。私がNOF感染症に疾患しているということに。
 不注意すぎたか。
 もう少し慎重に患者と接するべきだったのか。しかし理恵と長く接したのは今日が初めてだし、まだ3回しか会ってない。
 それほどNOF感染症は感染力が強いのか。
 どうして理恵はハッキリと感染が分かったのか。
 もし私がNOF感染症だったら、もう後戻りできない。理恵を救うのに失敗したら私も死ぬことになる。これからは二人が助かる方法を探さなければならない。
 少しずつ落ち着いてきた。
 まだ感染したと決まったわけではないが、覚悟はできた。
 絶対に感染しないという保障なんてどこにもなかったし、死の覚悟は私も芳原も持っていた。NOF感染症と戦うということは相応のリスクがあることも承知していた。
 南田も同じ状況だったんだと思うと気が楽になった。

 西畑から貰ったNOF検診のデータを洗いざらい調べてみたが、NOF感染者が検診で陰性を示す方法は見付からなかった。検診の制度と判定システムは完璧だった。替え玉や偽装ができる余地などどこにもなかった。検診前に国外へ逃げようにも、入国する前に厳重な身体検査を強制される。世界中で0種感染症と認定されている病気に疾患している以上、逃げ場はどこにもない。
 いよいよ手段がなくなってきた。
 0種感染症の前では一介の医者など何の役にも立たないのか。かつての南田がそうであったように。
 いや。私は諦めない。
 絶対に生き延びてやる。
 世界中を敵に回しても理恵は殺させない。
 波多野先生は「医者は詐欺師だ」とおっしゃっていた。ならば私は神になると誓ったが、どうやら神にはなれそうもない。
 だったら悪魔になってやろう。
 手段は選ばない。思いつくあらゆる方法を使ってでも理恵を助ける。

「林か?どうしたんだ、急に呼び出して」
「大場、折り入って頼みがあるんだが」
「見合いの相談か?」
「身寄りのない死体がふたつ欲しい。歳はできれば20代」
「冗談はそれくらいにしとけ」
「頼む」
「いいかげんにしろ。医者が死体遺棄できるわけないだろ」
「無茶を承知で頼んでいる」
「20代で身寄りのない死体なんてあるわけがない」
「身元の確認できなかった死体が毎年出ているのは知ってる」
「見損なったぞ林。俺が首を縦に振るとでも思ったか」
「駄目か」
「当たり前だ。ついでにお前との縁も切らせてもらう」
「じゃあ私の死体を遺棄してほしい」
「何を言ってるんだお前」
「私の死体を、ある女性のものに書類上偽装してほしい」
「しっかりしろ林。お前の言ってることは意味不明だ」
「私は0種感染症に疾患した」
 私のその一言が、大場の目の色を変えさせた。
「お前まさか、あの研究を続けていたのか」
「私はもうすぐ死ぬ。だからその命を使って一人の人間を助けて欲しいんだ」
「なんてバカなことしたんだお前は!南田の死は何だったんだ!そんなんで納得できるわけないだろ!」
「時間がない。説教はあの世で聞く。大場にしか頼めないんだ。頼む」
「ふざけるなよ、俺は医者だ。そんな頼み聞けない」
「自分の死体をどうするか、死体当人が決めちゃいけないのか?」
「いけないんだよ。子供でも分かるだろ」
「それで助かる命があってもか?」
「誰だよ、その助けたい人間ってのは」
「須藤理恵という女性だ」
「そいつはお前の何なんだ?」
「患者だ」
「そいつがお前にうつしたのか」
「すべて私の責任だ」
「何でお前が死んでそいつだけ助かるんだ。駄目だ。できん」
「頼む」
「ふざけるなよ。本気で怒るぞ」
「どうしても駄目か」
「お前の死体をそいつに偽装してどうなるっていうんだ」
「彼女を社会的に死んだことにする。そうすれば検診を受けなくて済む」
「社会的に死んだ人間がまともに生きていけると思うのか」
「顔は変える」
「そういう問題じゃないだろ。犯罪者として永遠に生きろっていうのか。ずっと怯えて生きろっていうのか」
「死ぬよりかはいい。生きていればいいことは必ずある」
「死のうとしてる人間の言うセリフか」
「私も諦めたわけじゃない、これは最後の手段だと思ってくれ」
「なら、こんな馬鹿げたことを考えるのはよせ」
「頼む大場」
「落ち着け」
「大場」
「くそ、何でこんなことになったんだ」
「大場、お願いだ」
「時間をくれ。急には決められん。また連絡を入れる」
「ありがとう大場」
「まだやると決めたわけじゃない。早まったことは絶対にするなよ。いいな?」

 同じ日、私は西畑に呼び出された。先日のM駅西口で落ち合った。
「西畑、何か進展があったのか」
「そっちはどうだ」
「ぼちぼちだ」
「林に頼みたいことがあるんだが、いいか?」
「できることなら何でも言ってくれ」
「髪、爪、皮膚、血、何でもいい、とにかくお前の細胞のある組織が大量に欲しい。お前が接触しているNOF患者のも一緒に用意してくれないか」
「いや、私のなら用意できるが、NOF感染者なんて私は…」
「この期に及んで隠さなくてもいい。お前がNOF患者と接触していることの裏は取れてるんだ」
 私は心臓が高鳴った。
「西畑」
「俺たちは仲間だろ。南田のリベンジマッチだ。とにかくNOF患者の細胞が大量にいる。協力してくれ」
「それなら私のやつだけでいい。実は私もNOF感染症に疾患している」
 私のカミングアウトに大場と同じく目の色が変わると思っていたが、西畑は全く動揺を見せなかった。
「すべて織り込み済みだ。遅かれ早かれそうなると思って俺も準備してきた」
 西畑は一枚も二枚も上手だった。
「こっちは時間がない。できれば今日中に用意してもらいたい。お前の患者が無理なら今日はお前のだけでいい」
「何をするつもりだ。治療薬でも見付かりそうなのか」
「治療薬じゃない。そもそもあれは病気じゃない」
「何だ?検査で陰性になる薬か?」
「違う。うまくいったらお前の体も一日貸してくれ」
「どういうことだ?詳しく話してくれ西畑」
「うまくいったら話す。とにかく時間が惜しい。頼んだぞ」

 私は、仲間たちは、持ちうる限りの力を振り絞った。
 同種を殺処分させるまで人類を追い込んだ、この世で最も優しくて残酷な病気、0種感染症。
 NOF検診まで残り1週間を切ろうとしていた。


0種感染症 #10(最終回)

2010/09/20



 子を残せないNOF感染症を殺処分している2025年の日本。
 私はNOF感染者、須藤理恵の治療に難航していた。かつての同士西畑、大場らに協力を求め、私はNOF感染症になりながら持ちうる限りの力を振り絞った。
 NOF検診まで残り1週間を切ろうとしていた。

 深夜1時、ハンドルを握る私の手は汗で濡れていた。
 私は西新宿ジャンクションから431号線に乗り、理恵を助手席に伏せさせながら後方に迫るパトカーから逃げていた。このままでは、もって吉祥寺まで、ヘタしたら中野で待ち伏せしているパトカーに進路を止められるだろう。
 後方のパトカーが2台に増えた。中野のパトカーは一足遅かったようだ。まだか。このままじゃもたない。
 焦る私の前で携帯が鳴った。
「林、予定どおりに電車が来た。いまどこだ?」
「くそ、笹塚だ。こっちはもう、もちそうにない」
「いや、絶妙だ。次の信号を左折して車を捨てろ」
「西畑やばい、赤になるタイミングだ」
「この期に及んで信号を気にしてる場合か、つっこめ!」
「歩行者がいるのにできるか!」
「避けて曲がれ!できなきゃお前が死ぬぞ」
「無茶いうな!道狭いんだぞここ!」
「アクセルをもっと踏め、まだ青じゃなけりゃいけるだろ」
「ここで車を捨てるしかない」
「そこからじゃ遠い!お前の力じゃ運びきる前に捕まるぞ」
「こんなスピードで曲がれるわけないだろ!」
「ハンドルを切りながらブレーキかけて後輪滑らせろ」
「そんな説明で分かるか!うわああああああ!!」
 西畑の無茶な要求に文句を言う暇もなく、交差点が私の目の前に迫っていた。幸いにも歩行者はいなかったが、車は反対車線を大きくはみ出し、けたたましいクラクションが鳴り響いた。車は何とか姿勢を保ちながら曲がり切った。
「すぐ横のバス優先の道に車を捨てろ!そのまま歩道を走って鉄橋の脇にある階段から柵を超えるんだ」
「理恵!走ろう!」
 私は助手席でうずくまっていた理恵を引きずり出し、抱えて走り出した。後方にいたパトカーもすぐ停車し、私たちに何かを叫びながら追いかけてきた。
 直後、遠くから電車の音が聞こえてきた。
 私は理恵を抱えながら鉄橋脇の階段を駆け上がり、柵を乗り越えた。そのままゆっくりと振り返る。
 私たちを追っていた警官二人の顔が硬直した。
「ばかな真似はやめろ!」
 その警官の言葉は、電車の警笛ですぐにかき消された。
 私たちは電車の前にゆっくりと体を投げ出した。

「波多野先生、お久しぶりです」
「西畑か」
 俺は林の墓の前でかつての恩師、波多野先生と会った。先生の手には日本酒が握られていた。
「若い奴らは無茶なことばかりしよるわ」
 そういって先生は林の墓石に酒をかけはじめた。
「先生、墓に酒をかけるのはマナー違反です」
「おれに口ごたえするのもお前だけだったな、西畑」
「医者は詐欺師なんかじゃありません」
「またその話か。そういえばお前の答えはユニークだったな」
 先生は墓石に酒をかけるのを止めようとしなかった。
「先生」
「なんだ?」
「酒をかけないでください。それに林は下戸なんですよ」
「なら問題ないな」
「先生!」
「林はここに入ってないんだろ」
 この時、俺はどんな表情をしていたんだろうか。たぶん驚くのを通り越して恐怖に引きつった顔をしていたに違いない。
 なぜ先生が林の偽装死を知っている?
 計画は完璧だったはずだ。誰にも漏れていないし戸籍上で死亡扱いになっているのも確認している。バレるはずがない。
「気持ちは分かりますが、林はもうこの世にいません」
 俺は動揺を悟られないよう細心の注意を払った。
「死んでもいない二人の弟子の墓参りをせにゃいかんおれの身にもなって考えろ」
「二人?」
「西畑。お前、医者は詐欺師じゃないと言っていたな?詐欺師は自分を詐欺師とは言わん。お前は誰よりも医者だった」
「何をおっしゃっているのかよく分かりません」
「おれをなめるなよ西畑。南田は元気か」
 先生の言葉を聞いて俺は全てを悟った。この人は何もかも知っている。俺は騙されたのだ。先生は何も知らないと。
「先生の他に、知っている人間は?」
 俺は観念した。南田と林に危険が及ばない方法を模索する方向に意識を切り替えた。俺のヘマで二人を殺すわけにはいかない。この人と俺はよく衝突した。弟子を殺すような人ではないと思うが、俺のことを良く思ってないのも確かだろう。
「おれの他に知っとる奴がいたら今頃お前ら全員墓の中だ」
 先生は空になった酒瓶を墓石の前に置いた。
「ちゃんと遺棄者に手を合わせているか」
「はい」
「いくら命のためとはいえ、死者を冒涜する行為には変わりない。だからおれは彼らのために死ぬまで手を合わせるつもりだ」
 そういって先生は目を閉じて静かに手を合わせた。俺も先生の横で手を合わせた。
 先生の腹を疑った自分を恥じた。

「先生。今まで本当にすみませんでした」
「水臭いぞお前ら。おれもあの研究の同士だったろうが」
「先生に汚いことをさせるわけにはいきませんでした」
「若造のくせに言うわ。そういう役は老い先短い老人のやることだろうが」
 先生は笑っていた。
「先生はどうしてお分かりになられたのですか」
「何が?」
「林や南田が生きていることを、です」
「今お前が教えてくれたろうが」
「え?」
 先生はニヤリと笑った。
「死体の原型がないだけじゃ確証が持てんでな。まあそうだろうとは思っとったが」
 やられた。
 だから俺はこの人が嫌いなんだ。
 たぶん一生好きになれそうにない。
「警官にわざわざ自殺現場を見せるというのは誰の考えだ」
「南田です。犯人を追う途中での死亡事故は検察の注意が警察に向いて偽装死が隠蔽しやすくなると思ったのです」
「途中で目撃者に見付かるリスクのが高くならんか?」
「乗客からの死角が多く、安全に逃走できる自殺場所を数ヶ所に絞りました。林が死体と一緒に電車へ巻き込まれる危険性があるという点だけが心配でした」
「もっと安全な方法でやらんか。危なっかしいわ」
「ですが、うまくいきました」
「何度も教えたろうが。結果論じゃなく方法論が大事だと」
「結果論も何も、まだ戦いは終わってません」
「時効は効かんからな」
「そうではありません。NOF感染症との戦いです。俺たちは殺処分から逃げるためだけに行動していたわけじゃない」
「何か策があるのか」
「ええ。ですから医者は詐欺師なんかじゃありません」
 俺は胸を張って先生を見た。
「医者は正義の味方です」

 私はアパートの一室で目を覚ました。
 理恵はキッチンで食事の用意をしていたらしく、いい匂いが部屋を包んでいた。
「あ、先生。起きてらしたんですか」
 理恵が私に気付いてお茶を持ってきた。
「ありがとう。眠気覚ましにコーヒー飲んでもいいかい?」
「コーヒーはダメですよ先生。お医者様なんですからそのくらい知ってらっしゃるでしょう?」
「すまん」
 私は小さくなってお茶をすすった。
 NOF検診から2週間が過ぎていた。偽装死が成功し社会的に死んだことになっている私たちは殺処分を免れていた。
「ひとつ、聞き忘れていたことがあったんだ」
「何ですか?先生」
「キミが初めて訪ねてきたとき、私を選んだ理由を教えてくれなかったね。教えたら私にNOF感染症がうつると言って」
「も、もう忘れてください」
 理恵が顔を真っ赤にした。
「今にして思えばすごい自信家というか、何を根拠にあんなことが言えるのか気になって」
「知りません」
「教えてくれないか?もういいだろう?」
「恥ずかしいので言えません」
「じゃあ予想するから当たってるか教えてくれないか」
「わ、わかりました」
「私が好きだったから?」
 理恵は耳まで真っ赤になりながらコクンと頷いた。
「疑問なんだが、それでどうして私がNOF感染症になると?」
「だから忘れてくださいってば。私の勘違いですから」
「まさか告ったら私もその気になると思っ、ふごっ」
 全てを言い終わる前に理恵が私の口を塞いだ。まあ「当たり」ということなんだろう。
「まだ聞きたいことあるんだが」
「もうやめてください。お茶が冷めますよ」
「私にNOF感染症がうつったと言って泣いたことが、ふぐぐぐ」
「先生!先生!もう忘れてください!」
 理恵がすごい力で私の口を塞ぎにかかった。ちょっとシャレになってないくらいの力で息ができない。私はたまらず理恵の肩をパンパン叩いた。
「はぁ、はぁ」
「す、すいません先生」
「いや、いいよ。気持ちは分かるから。まさか『コイツ私に惚れたな!』って確信もたれてたなんてふごごごご」
「先生!本気でやめてください!」
 私はたまらず2回タップした。理恵は大人しそうな顔をしているが案外自信家なんだな、と思った。
「そろそろ私のことは先生じゃなくて名前で呼んでほしい」
「え、林さんって呼ぶんですか?」
「違う、名前のほうだよ」
「佐枝子さんですか?」
「佐枝子でいいよ」
「無理です、佐枝子さんにします」
「自信家のくせに妙なトコがしおらしいな」
「佐枝子さんも、もっと女らしく、しおらしくしてください」
「私は物腰も丁寧なつもりだが?」
「言葉遣いが荒いでしょ!」
「そうか?」
「それにスキあらばコーヒー飲もうとして。お腹の赤ちゃんが可哀想だと思わないんですか」
「そ、それは反省してます」
「私たちだけじゃなくて、世界中の希望なんですからね、その赤ちゃんは」
「そうだな…」
 私は自分のお腹をさすった。ここには受精して一ヶ月経った理恵と私の赤ん坊がいる。

 同性同士で子供が残せることを証明する。
 それが西畑の出した答えだった。
 同性に恋愛感情を持つ人間の増加で出生率が低下し、その感情が病気であると認定されている2025年の日本。子供を残せないから病気だというのなら、子供を残せる技術を確立させることができれば病気ではないという証明になる。西畑はips細胞から精子や卵子を作り出す基礎理論を完成させ、私と理恵を使いその理論の実証に成功したのだ。
 これから世の中がどう動くかは分からない。しかし私は、私にしかできないことをやるつもりだ。(終わり)

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